マルコ・ポーロ『東方見聞録』

印刷本 20.5×14.1cm
1295年頃 
ベルギー・アントワープ版(1485年ラテン語)

マルコ・ポーロ Marco Polo (1254〜1324)の旅行記。ヨーロッパ世界に日本についての情報を最初にもたらした書として有名。著者はイタリア人、ベネチア生まれ。貿易商の父、叔父に伴われて、1272年に東方への旅に出、天山南路を経て1274年に元の都、北京に至り、皇帝フビライの信任を得て、元朝統治下の中国各地を訪ねた。1295年に帰国したが、ジェノアとの戦争で捕らわれ、獄中で小説家ルスティケーロ Rustichello に自らの旅行体験を語った。その筆記が『東方見聞録』である。コロンブスが、この書に記された「黄金の島ジパング」に刺激されて、新大陸を発見するなど、大航海時代に大きな役割を果たした。写本や刊本に種種の系統があるが、モリソンが蒐集し、東洋文庫に継承されたものが54種類もある。そのうち最も古いものは、最初のラテン語訳として知られるピピノ Pipino 訳本で、1485年にアントワープで出版されたものである。東洋文庫では、その影印本を製作、学界に提供する一方、原本は超貴重書として大切に保管している。今回は、特に原本(古版本)を出展する。 

解説:東洋文庫理事 田仲一成

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フランソワ・カリオン『イエズス会士年報(1579)』

印刷本 15.9×10.2cm  
1579年 パリ1584年版

イエズス会士、フランソワ・カリオンがこの年、肥前、口の津からイエズス会の総会長に送った書簡。フランス語で書かれている。当時の肥前、肥後、筑前、筑後、豊後など、九州北部のキリスト教布教の模様、この地の諸大名の動向、諸都市の情況を詳しく報告している。天草については次のように記す。
「肥前 Figen の国に接して豊後 Bungo の王の統治下にある肥後 Fingo の国がある。同国においては、天草 Amacuca という島にキリシタンがいる。天草は5人の領主に分割され、各々がこの島の一部を領有している。彼らもまた専制の領主であるが、先に述べた領主より小さく、みな豊後の王に服従している。この島は口の津の港から5里はなれた所にある。5人のうち、主な領主は全領土とともにキリシタンとなっている。諸村の人口は1万人に近い。領内に住院2箇所あり、第1は都の天草にあり、通常はパードレ2人とイルマン1人が駐在する。他の住院は他の領主の近在地本渡Fudoにある。パードレ1人とイルマン1人が駐在する。この両住院は領内の諸会堂を分割管理する。会堂の数は多いが、みな小さい。」

また、博多については、次のように記す。
「肥前の他の方向に筑前 Chicussen の国がある。ここに博多 Facata の市がある。非常に大きな商人の町で、家屋は7000戸以上あるが、キリシタンの数はまだ3000人に達しない。ことごとく異教徒の市である。しかし重要な地なので、数年前よりここに住家を有し、平常、パードレ2人、イルマン1人が駐在する。」
当時の欧米人の日本観察として貴重である。(参考:村上直次郎訳『日本通信』、雄松堂、1969)

解説:東洋文庫理事 田仲一成

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「肥前長崎明細図」(出島図)

彩色写本 38.4×1876.4cm 
明和9年(1772)頃

長崎およびその周辺の幕府施設の平面見取り図。絵巻物風に描く。図中に記載される建造年のうち、最も遅いものが明和9年(1772)なので、図の成立はこの年以降と見られる。主な施設は、役所、倉庫、牢屋、薬園、番所など。ここでは出島の図を示す。出島は市街地から南に向って海上に突き出す広さ3969坪の扇形の小島である。北側は水路をまたいで市街地に接する橋がかかり、その内側に表門を設ける。西側は船着場になっており、その内側にも小門を設け、水門と称した。南側と東側は海、周囲を塀で囲む。島内の家屋はすべて木造、水門の内側に接して北側にオランダ商館長など7、8人の住む屋敷を設け、倉庫、その他の付属家屋、遊園、蔬菜園などを付置する。また島の中央を東西に走る広い路を通し、その南側に日本役人の家屋、通詞の詰部屋、札場、検使場、倉庫、番所など65軒の建物を配置してある。オランダ船が入港したとき、船と出島の交通は船着場のある水門によった。市街に通じる南門の橋詰め入り口には特定の者以外の出入を禁ずる制札が立ち、オランダ人も島から外へ出ることは禁じられていた。平面図とともにオランダ商館長I・ティチングの『歴代将軍譜』所載の鳥瞰図(1820年刊)を示す。(参考:呉秀三『シーボルト先生』1、平凡社、1967)

解説:東洋文庫理事 田仲一成

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杉田玄白等訳 『解体新書』
附『ターヘル・アナトミア』(原典)

木版本 25.5×18.4cm  
安永2年(1773)頃
江戸須原屋市兵衛版

日本最初の西洋解剖学の翻訳書。杉田翼(玄白)訳、中川麟(淳庵)校、安永三年江戸須原屋市兵衛刊。ドイツ人、ヨハン・アダム・クルムス Johann Adam Kulmus の著わした Anatomische Tabellen (『解剖図』)のオランダ語訳本 Ontleedkundige Tafelen (ヘラルデュス・ディクテン Gerardus Dicten訳、1731年刊)を、杉田玄白が漢文で逐語訳して安永3年(1774)に刊行したもの。オランダ語原典にはタイトル・ページ図版にラテン語で TABULAE ANATOMICAE と記されており、文中には Tafel、或いは Anatomia の語もあり、これから「ターヘル・アナトミア」と通称されるに至る。和訳本に附された「解体図」は、秋田藩小田野直武の精密な模写による。和訳は、前野良沢が指導にあたり、中川淳庵、桂川甫周らが協力した。築地の中津藩邸内の前野良沢宅に同志が集り訳業を行った様子が杉田玄白の『蘭学事始』に詳しく述べられている。東洋文庫には故藤井尚久博士(1894〜1967)の蒐集本を継承し、和訳初版本とともに上記のオランダ語原典の1734年(口絵は1731年)刊、アムステルダム版を蔵する。今回、和訳初版本、オランダ語原典の双方を出展する。

解説:東洋文庫理事 田仲一成

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桂川甫周訳 『和蘭字彙』

木版本 27.0×19.0cm  
安政3年(1855)頃 
訳者自版

長崎出島のオランダ商館長、ヘンドリッキ・ドゥーフ Hendrik Doeff (1804〜07在任)が和訳を付したオランダ語の字書『ドゥーフ・ハルマ』(『道富・波留麻』)を、幕府の侍医(蘭方外科)、桂川甫周(1826〜81)が安政2〜5年(1855〜58)に和訳部分を補訂して刊行した。写本で伝わっていたこの書は多年、刊行を許されなかったが、甫周は幕府と争って、遂に江戸でこれを出版した。補訂には門人が協力した。序文は門人が書いている。この字書は、単語の語彙だけでなく、短文の例文も載せている。序文によると、和訳は直訳を重んじ雅語をさけて俗語を用いたといい、また、その和訳に用いられた俗語は多くは長崎の俗語であるという。また、刊行にあたり俗語の補正に努めたが、払拭はしてはいないという。事実、Kus、Kis(キッス)の訳語、接吻に「アマクチ」と振り仮名をつけている。見出し語に++の符号をつけて、原語が俗語であることを明示している。日本の蘭学の最も発達した水準を示すもので、蘭学の発展に貢献した。

解説:東洋文庫理事 田仲一成

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三橋釣客「地球一覧図」

木版図 84.0×161.8cm  
天明3年(1783)頃 
大坂大野木市兵衛等版

大坂で刊行され、京都、江戸でも発売された。マテオ・リッチの『萬国図誌』、同漢訳『職方外紀』(1623)の系統を引く。地球が球形であることを踏まえて描かれた世界図。蘭学が隆盛にむかい、日本人の世界認識が広がってきた段階のもの。マテオ・リッチが大陸と考えた「野作」(エゾ)の地(北海道)を島として小さく載せる。樺太についての記載は全くない。地球が円形であることを示した図としては、西川如見の『増補華夷通商考』(1708)があるが、本図は更に詳しく地名を記す。日本から主要地域までの海上の距離を例示する。南京、浙江、舟山、福建、沙〓(土偏に呈)、泉州(以上、中国)、朝鮮、釜山浦、(以上、西北)、タカサゴ[東寧]、広東、交址、トンキン[東京]、チャンパ[占城]、カンボジャ[東埔塞]、ジャガタラ[咬留〓(口偏に巴)]、琉球、呂宋(以上、南方)、太泥(西域)、シャム[邏羅]、ベンガル[榜葛利]、マダカスカル[満多加須加](以上、西南)、ポルトガル[蒲麗都家流]、オランダ[紅夷]、インギリア[伊牟義利阿](以上、西方)、朝鮮八道、中華南京至北京。これによると、中国沿海ルート、インド洋ルートまでは詳しいが、さらに西方の欧州については、ポルトガル、オランダ、イギリスの三国を記すだけである。まだ、欧州についての知識も関心も希薄だったことがわかる。      

解説:東洋文庫理事 田仲一成

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E.マンテル「帝政中国図」

銅版 47.0×62.6cm 
1794年頃 
パリ版

本図は1787年に北海道,樺太方面を探検したラ・ベルーズの記録に基いて作成されたものと思われる。北海道と樺太が初めて別の島として明確に記載されている。本図の樺太と大陸との間の海峡の描き方をみると、点線で連結してある。ラ・ベルーズは,樺太が砂洲で大陸とつながっていると考えていた。朝鮮半島は、これ以前の地図では、島と考えられたり、半島にしても極度に小さいものと考えられてきたが、本図では、形状、大きさとも実情に近づいている。日本列島、琉球列島についても、以前の図にくらべて格段に正確に描かれている。西洋科学の目が日本の全貌をとらえはじめていることがわかる。

解説:東洋文庫理事 田仲一成

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P.F.V.シーボルト 『日本動物志』

水彩画 41.5×32.0cm   
1850年 
オランダ・ライデン版

シーボルトはドイツ人医師。1823年来日。長崎オランダ商館に住む。日本の地理学、地質学、歴史学、人類学、など、広範囲にわたって優れた研究業績を遺した。併せて書籍の蒐集、動物学上の記録、植物学上の記録にも精密な仕事をした。日本の地図の入手をめぐり、幕府から嫌疑を受け、国外退去となったが、滞在中に蒐集した日本の動物、植物などの標本を整理して、精細な彩色絵図、記録をまとめた。その『日本動物志』Fauna Japonica はライデン博物館長テンミンク Temminck、シュレーゲル Schlegelとの共著。フランス語、ラテン語によって記載。1833〜50年、オランダ、ライデン府から出版。全5巻、第1卷〈哺乳動物類〉、第2巻〈鳥類〉、第3卷〈爬虫類〉、第4巻〈魚類〉、第5巻〈甲殻類〉から成る。ここには第4巻の魚類を出す。頁数323、図版160、1842年出版。。魚類358種。うち、テンミンク、シュレーゲルの名を付すもの103種。本編に記録された魚類は、主として長崎、島原、大村により、その他、五島、松前(福山)、肥後、薩摩、久留米、大阪、江戸などの標本によったという。(参考:呉秀三『シーボルト先生』2(平凡社、1968)299頁以下による)

解説:東洋文庫理事 田仲一成

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P.F.V.シーボルト『日本植物志』
附 R.ワーナー『蘭アルバム』

水彩画 40.0×31.0cm 
1844年頃  
オランダ・ライデン版

シーボルトが日本で蒐集した植物標本を植物学者ヨセフ.G.ツッカリーニーが解題したもの。1834〜44年、『日本植物志』Flora Japonicaの名でライデンで出版。日本に産する植物のほとんどどすべての種類をあげ、幾多の新種を発見し、これにラテン名を附し、植物学上の特徴を記し、精緻な図151を加えた。第1篇はシイノキ、シャクナゲ、キリなど図版100、第2篇はカラマツ、ツガ、モミなど図版51、全編を通じて鑑賞植物、殊に花・葉・枝などの美麗な樹木、及び実用草木を挙げている。日本人の名も散見される。例えば、「オオフキ」の条に、葛飾北斎のことを記し、「エゾマツ」の条に、桂川甫賢、最上徳内のことを記す。ここでは「バラ」の図を出す。別にシーボルトはその著『日本』の中で、日本の花卉を論じて、「日本の花卉は、ヒマラヤ一帯の山脈、特にアッサム、ブータン、ネパールの花卉に驚くほど似ている」と述べている。事実、世界の蘭を採集して記録したロバート・ワーナー編『蘭アルバム』(1882〜97)には「北インド及び日本」を原種とする、というコメントを附した黄色い花の蘭が載せられている。欧米人による日本の植物研究は、シーボルト以前にケンペル、トゥーンベルグがあり、シーボルトのあとには、ミッケル、マキシモヴィッツ、フランシェーなどが続くが、シーボルトの貢献が最もおおきい。(参考:呉秀三同前書306頁以下による)    

解説:東洋文庫理事 田仲一成

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E.ダンカン「アヘン戦争図」

銅版画 41.7×60.0cm 
1843年 
ロンドン版

1838年12月、広東巡撫、林則徐はイギリスのアヘン販売を禁止、1839年6月には、広州湾頭の虎門において230余萬斤のアヘンを焼却し、中英間に戦争がおこった。いわゆる、アヘン戦争である。イギリスは鋼鉄戦艦を使用して、海上戦闘を有利に展開した。図は、1841年1月7日、広州湾珠江河口の穿鼻洋(英名:Anson 湾)の海戦で、イギリスの鋼鉄製戦艦(機帆)ネメーシス号(命名はギリシャ神話の復讐の女神の名に基く)が清国側の木製兵船群に砲撃を加えている場面を描いた銅版画である。この海戦で、イギリス軍は珠江を北上し、西側の大角砲台、東側の沙角砲台を攻撃し、1400余名の兵士が上陸して砲台を占領した。3時間半の戦闘中、ネメーシス号1隻で、中国船11隻を破壊したと記されている。作者はエドワード・ダンカン Edward Duncan(1803〜82)。写真のない当時の、画家による想像画である。発砲側(イギリス艦隊側)からでなく、着弾側(清国艦隊側)から、情景を想像して描いている。本邦には他に所蔵者がなく、この東洋文庫所蔵のものが、中学、高校の教科書、学習書などに広く用いられている。本文庫所蔵品中、最も人気の高い作品である。文庫には、本図の他にもダンカンの描いた広東・香港の風景画、戦争画が多数蔵せられている。(参考:ウイリアム・シャング「財団法人東洋文庫所蔵の歴史画コレクション:19世紀における中英対立の構図を見る」、『東洋文庫書報』33、2001による)

解説:東洋文庫理事 田仲一成

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「ペリー久里浜上陸図」

水彩画 27.4×232.6cm 
嘉永6年(1853)頃

嘉永6年6月3日(日暦)に、アメリカのペリーが艦隊を率いて浦賀に入港して停泊した。9日に部隊を久里浜に上陸させて、浦賀奉行にアメリカ大統領の国書を手渡した。幕府側は国書受け取りのための仮応接所(会議所)を浜辺に架設した。浦賀奉行、戸田伊豆守は200人、井戸石見守は100人の兵を率いて応接所に待機し、その両翼を彦根藩兵2000人、川越藩兵700人で固め、沖合いのアメリカ艦隊と対峙した。この図は、当時のアメリカ上陸部隊350名が隊列を組んで応接所に向かうときの陣立てを描く絵巻ものである。赤白の国旗をかざした軍楽隊を先頭に立て、総大将1人、国書をもつ童子2人を従え、その後ろに長い縦隊が続く。総勢400余人と記されている。隊列の側面には、数名の指揮官が指揮刀をふるって行進をリードしている。このほか、日本側陣立て、アメリカ側の人物図、軍楽の樂器などが描かれる。精密な写実画ではなく戯画風のスケッチであるが、かえって当時の人々の生々しい印象を伝えている。(参考:井伊家彦根藩文書『ペリー浦賀来航図』、神奈川県立歴史博物館『ペリー来航150周年記念・黒船』2003、所録による)

解説:東洋文庫理事 田仲一成

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朝〓(口偏に敦)齋「プチャーチン戸田浦来航、軍艦建造図」

水彩画 30.5×616.2cm 
安政2年(1855)頃

嘉永6年(1853)、ロシア使節プチャーチンは旗艦パルラダ号に搭乗し艦隊を率いて長崎を訪れ、通商を要求した。幕府が1年後の交渉を約したため一旦帰国、翌嘉永7年(1854)、使節団は旗艦をディアナ号に替え、極東ロシアから箱館を経由し、9月に大坂に来航した。幕府はアメリカと同じく下田を交渉の場とすることとし、プチャーチンは下田に回航、10月に下田港に入港して、幕府側との会談を始めた。ところが会談開始の3日後、大津波が下田港を襲った。ディアナ号はこのため重大な損傷をこうむり、修理のため西伊豆の戸田村に向かったが、途中で沈没してしまった。500人近い乗組員は幕府の許可と援助を得て、戸田村で新船の建造に着手することになった。これがスクーナー船戸田号で、約3ヵ月を要して完成し、翌年1855年3月に出港した。図は戸田号の進水式とプチャーチン以下のロシア人、これをとりまく日本側役人など、わが国最初の洋式帆船建造の模様を多角的に描いた絵巻物。ロシア人には1人1人、氏名が書き込まれており、ロシア最初の和露辞典『和魯通言比考』(ペテルブルグ、1857)の著者で、初代の在日本ロシア領事を勤めたヨシフ・アントーノヴィチ・ゴシケーヴィチの姿も見える。(『中村喜和『おろしや盆踊唄考』、東京北川フラム、1990、210頁以下、「橘耕齋傳」による)

解説:東洋文庫理事 田仲一成

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