度繁「短冊をもつ立美人」

大々判墨摺絵 56.1×29.5cm 
宝永・正徳(1704〜16) 
署名「日本戯畫懐月末葉度繁圖」 印章「度繁」
伊賀屋版

懐月堂安度の門人、度繁の作品。安度は肉筆画のみを描き、版画の作は知られていないが、安知・度繁・度辰の3人の門人は、懐月堂風の堂々たる立美人図を版画にして刊行、現在23点知られている。度繁はその中でも最も多い12点を制作している。そのうち本図を含む11点が伊賀屋版であり、版元・伊賀屋と緊密な協力のもとに作画していたことがわかる。
右手で短冊を持ち、それを読む女性は遊女を写したものであろう。くの字の身体と頭を下げた姿形は、懐月堂派に共通する様式であり、そらした右手の小指や、懐手の左腕は一種のポーズとみてよい。柳橋図を思わせる振袖の文様、松や水辺の芦の文様が目をひく。同一の図は、東京国立博物館とメトロポリタン美術館にも所蔵されている。   

解説:千葉市美術館学芸課長・東洋文庫研究員 浅野秀剛

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奥村政信「若衆虚無僧の図」

幅広柱絵判墨摺筆彩 59.0×23.6cm 
寛保・延享(1741〜48)頃
署名「芳月堂正名根元 奥村文角政信正筆」 印章「丹鳥齋」 
奥村屋源六版

天蓋と呼ばれる深編笠を持ち、腰に尺八を差した若い男の虚無僧である。虚無僧は、普化宗の有髪の僧であるが、歌舞伎芝居において、志を持つ者が身をやつす姿として頻繁に用いられるに及んで、浮世絵でもポピュラーな画題となった。特に江戸中期には、若衆虚無僧図や男女虚無僧図が盛んに描かれている。本図もそういったものの一つで、美男の虚無僧の憂いに沈んだ姿である。右上の発句は「鶯の恋暮(慕)の竹に初音かな」。
奥村政信は、次々に新しい様式の版画を生み出した前期浮世絵師である。この図の署名にも明記しているように、縦に非常に長い「柱絵」という版形式も政信の発明であったようである。本図は、柱絵の中でも特に大きい幅広柱絵と呼ばれるもの。政信のこの版型の作品は20点ほど知られている。     

解説:千葉市美術館学芸課長・東洋文庫研究員 浅野秀剛

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石川豊信「文を書く遊女」

幅広柱絵判墨摺筆彩 69.5×16.0cm
寛保・延享(1741〜48)頃
署名「〓(日偏に旦)篠堂 石川秀葩豊信圖」 印章「豊信」 
鱗形屋版

片膝を立てて文を認める遊女の図。ほっこりとふくよかな豊信の特徴のよく表われた作である。吉原の遊女の多くは、格子の付いた道に面した部屋で嫖客に向けてのデモンストレーション、すなわち張見世をした。すぐに客が付く時はよいが、客が付かない時は長時間の張見世を強いられる。そういった時に書くのが、馴染み客へ恋文である。恋文といっても一種の営業であり、今度いつ来てくれるのか、といった内容となる。この図は、そういった遊女を想定していると考えてよい。
石川豊信は図42の政信より一世代若い絵師であるが、寛保・延享期に政信と競うように幅広柱絵を制作した。幅広柱絵には、図42のように幅が広いタイプと、本図のようにそれより狭いタイプの2種があった。

解説:千葉市美術館学芸課長・東洋文庫研究員 浅野秀剛

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鈴木春信 「やつし費長房」

柱絵判錦絵 67.8×11.7cm 
明和(1764〜72)後期 
署名「春信画」 
版元未詳

文を持って鶴に乗り、文から目を離して下方を見る遊女の図。中国の仙人を当世風にやつした絵である。鶴に乗る仙人には王子喬などもいるが、春信画に先行する奥村政信の同種の作品に「費長房」と記されていることから、費長房を当世美人にやつしたものであると考えられている。春信の「やつし費長房」としては、黄を背景に鶴に乗って文を読む明和中期の中判錦絵が知られているが、本図はそれよりやや遅い晩年の春信様式を示している。今まで紹介されたことのない新出の図様と思われる。

解説:千葉市美術館学芸課長・東洋文庫研究員 浅野秀剛

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鈴木春信「柿の実取り」

中判錦絵 27.5×20.1cm 
明和4、5年(1767、68)頃 
署名「鈴木春信画」 
版元未詳

鈴木春信は多色摺木版画の完成形である錦絵の創製に最も深く関与した浮世絵師として著名である。錦絵の誕生は明和2年のことであるが、本作はそれより2、3年が経ち、春信が最も充実した時期の、春信らしい可憐な作品である。愛らしいが、弱く頼りなげな若い男女が、力を合わせて柿を盗み取ろうというのである。茅垣の上に枝を伸ばした柿を、男の背に乗った娘が取ろうとしている姿は、ほほえましいがいかにも危うい。今にも2人は崩れ落ちて地面に叩きつけられるのでは、と思わずにはいられない。その抱きしめたくなるような危うさが春信の魅力である。

解説:千葉市美術館学芸課長・東洋文庫研究員 浅野秀剛

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駒井美信「階段で文読む男女」

中判錦絵 25.8×18.9cm 
明和(1764〜72)後期頃 
署名「駒井美信画」 
版元未詳

階段の上段で、女が文を読んでいる。宛名は「志の助さま」と記されているようである。それを後ろから覗きこんでいるのは、中剃こそしていないが男髷に結い、振袖の長羽織を着ていることから陰間(色子)と判明する。「志の助」は、この陰間の名であるかもしれない。とすると、行灯看板にある「叶屋」は陰間茶屋であり、前垂をしている女はそこの仲居と考えることもできる。2人は情を通じ合った仲であり、志の助の許に届いた恋文にやきもちをやいた女が、文を取り上げて読み始めた。それを心配そうに後ろから眺める志の助。例えば、そんな情景を想像したくなる。
駒井美信は、明和後期頃に活躍した浮世絵師である。春信様式であることは確かであるが、春信の門人かどうかは定かでなく、春信とは違った個性も見せている。伝歴も全く不明である。しかし、いわゆる「春信亜流」といわれる絵師の中では比較的多くの作品が伝存(ジャック・ヒリヤー「駒井美信」—『浮世絵芸術』26、昭和45年8月—では30点記録しているが、その後に紹介されたものもあるので、40点ほど伝存していると思われる)している。遺存する作品の様式に幅はあまり認められないので、一時期の人と考えてよいであろう。

解説:千葉市美術館学芸課長・東洋文庫研究員 浅野秀剛

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一筆齋文調 「墨水八景 今戸橋の晴嵐」

中判錦絵揃物の一 26.3×19.7cm 
明和8年(1771) 
署名「一筆齋文調画」 印章「守氏」 
版元未詳

墨水とは、墨(隅)田川の少し気取った言い方であり、墨水八景は、隅田川の八つの景勝の意であるが、この文調の揃物では名所風俗画となっている。図は、浅草北方の今戸橋付近を描いたもの。上部は川に張り出した床の上で宴に及ぶ男たち、手前は屋根舟を降りる振袖芸者と思われる。屋根舟の提灯に「橘」とあるので、日本橋橘町の芸者であるかもしれない。当時、橘町には振袖芸者(踊り子とも呼ばれた)の置屋が多くあり、舟遊びなどの席に侍ることが多かった。宴席に呼ばれた芸者が舟を降りるところ、あるいは舟遊びに同席した客と芸者がこれから茶屋へ繰り出すところであろうか。肩を貸す男は箱屋(三味線箱を持ち芸者の伴をする男)か船頭と思われる。
一筆齋文調は、明和後期に、勝川春章と共に多数の役者似顔絵を制作刊行し、役者絵を一新させたことで知られているが、この図のような風俗画のシリーズも少なくない。「墨水八景」は、《綾瀬の夕照》《橋場の夜の雨》《梅若の秋月》と、この図の4図が確認されている。そのうち《橋場の夜の雨》と《梅若の秋月》には、吉原の遊女、すなわち仮宅風俗が描かれている。明和後期の吉原は、明和5年4月と明和8年4月に焼亡、いずれも今戸・橋場・山谷などに仮宅営業している。この揃物は、絵の様式と署名の形式から明和8年頃のものと比定できるので、版元と文調は、明和8年の夏に、仮宅風俗を反映させた夏風俗の4図を制作刊行したものと推定できる。残りの4図も刊行されたかどうかについては、今はわからない。本図は、他にはボストン美術館蔵品しか知られていない。

解説:千葉市美術館学芸課長・東洋文庫研究員 浅野秀剛

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鈴木春次「庭を見る遊女と禿」

中判錦絵 25.4×18.9cm 
明和(1764〜72)後期頃 
署名「鈴木春次画」
播磨屋新七版

春次は、図46の駒井美信同様、鈴木春信亜流の浮世絵師である。伝歴は全くわからない。遺存する作品は美信より少ないが、それでも10点以上はあるであろう。名前から類推して、春信の門人と考えられている。
図は、吉原の遊女と禿が庭を眺めている情景である。庭には、春信の作にも頻出する袖垣と萩、それにデザイン化された流水が描かれている。画面を、単純に上・中・下に三分しているのは評価できないが、どこか愛らしい1枚である。

解説:千葉市美術館学芸課長・東洋文庫研究員 浅野秀剛

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勝川春章「芸子坐舗狂言 姫小松子の日遊 しゆんくわん僧都 亀王女房おやす」

間判錦絵揃物の一 32.2×22.7cm 
安永5年(1776)頃 
署名「春章画」 
版元未詳

武家や町家のお座敷で、役者や芸者あるいは町の女師匠などを招いて歌舞伎狂言を演じさせるものを座敷狂言という。この図は、芸妓の座敷狂言を描いたシリーズの1枚である。画中に明記されているとおり、「姫小松子の日遊」の三段目の切「洞ヶ嶽の俊寛」の一場面、俊寛とその家来筋に当たるお安が遭遇するところを描いたものである。
同一シリーズでは他に、《忠臣講釈道行 けいせいうきはし 縫之介》(『浮世絵事典』など)、《おのゝ道風》(シカゴ美術館蔵)を知る。本図は、他に所蔵しているという報告のないものである。春章が、北尾重政と共に作画を担当した『青楼美人合姿鏡』(絵本3冊、安永5年刊)と同一の様式と認められるので、時代も同じ頃と考えられる。

解説:千葉市美術館学芸課長・東洋文庫研究員 浅野秀剛

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礒田湖龍斎「机による遊女(やつし関羽)」

柱絵判錦絵 68.4×12.0cm 
安永(1772〜81)前期 
署名「湖龍齋画」 
版元未詳

文机による吉原の遊女と、衣桁の柱を抱え持つ振袖新造(禿の可能性もあるが、髷や振袖の形状から新造としておく)である。遊女が髪の一部を左手で胸前に撫で下している思わせぶりなポーズや新造の不思議な姿態、そして余白の讃より、中国三国時代の蜀漢の武将である関羽を遊女にやつした図であることが了解される。美髯公関羽と称されるほど髯自慢であった関羽は、それを撫でるしぐさが描き継がれており、それを遊女の髪に代えたというわけである。新造の姿態は、82斤の青龍刀を持って控える家来の周倉に擬している。讃は「美情公宦婦字温長」「桃園に義をむすむでや媒口」。前者は、「美髯公関羽字雲長」を遊女に合わせて捩ったものであり、後者は、桃園における劉備・関羽・張飛の義兄弟の契りを踏まえたもの、媒口は仲人口の意である。
本図の原型となった、机によって読書する関羽と青龍刀を持って後ろに立つ周倉の図は、奥村政信画の細判石摺絵(墨摺の一種、ホノルル美術館蔵、元文—延享頃)を知る。またそれをやつした図としては、歌川豊春画《文読む若衆と青龍刀を持つ遊女》(柱絵判錦絵、東京国立博物館他蔵、本図とほぼ同時期のもの)がある。湖龍斎は、この柱絵とほぼ同一の図様を、1、2年後に肉筆画に仕立てている(絹本着色一幅、ボストン美術館蔵)ことを付け加えておきたい。        

解説:千葉市美術館学芸課長・東洋文庫研究員 浅野秀剛

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礒田湖龍齋「雛形若菜初模様 四ツ目屋内さよきぬ」

大判錦絵揃物の一 38.7×26.4cm 
安永5年(1776)頃 
署名「湖龍齋画」
西村与八版

安永4年(1775)頃から天明元年(1781)までの間に連続的に刊行された大判錦絵の揃物《雛形若菜の初模様》は、浮世絵史上画期的なものであった。新吉原の花魁を1図に1人(稀に2人)ずつ描き、周りに新造・禿等を配したもので、余白に遊女名と所属する妓楼の名を記すというスタイルで統一されており、総図数は120図を超すものと推測され、浮世絵版画史上最大の揃物である可能性が大きい。錦絵時代の初めに制作刊行されたこの揃物は、その数においてのみならず、いくつかの点において誠に興味深いシリーズとなっている。
この揃物が契機となって錦絵の主要判型が中判より大判に移行しはじめたこと、遊女絵が美人画の主要ジャンルとして確立したこと、画中に版元印を捺すことが普通になったことなどを指摘でき、その果たした役割は甚だ大きい。
四つ目屋は、吉原の京町1丁目にあった遊女屋・四つ目屋善蔵で、さよきぬは、安永5年春の吉原細見より名が載るそこの座敷持ちである。傍らで眺めているのはやや年長の禿と十に満たぬ幼い禿であろう。版元印はないが、他のシリーズと同じく西村屋与八版と推定される。 なお、鳥居清長は、湖龍斎のあとを受けて、天明2〜4年(1782〜84)頃に同一揃物名で10点作画し、勝川春山は、天明7年(1787)に2点作画していることを付け加えておく。

解説:千葉市美術館学芸課長・東洋文庫研究員 浅野秀剛

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勝重「中洲の納涼」

柱絵判錦絵 65.1×11.5cm 
天明(1781〜89)頃 
署名「勝重画」
版元未詳

川にせり出し、周囲を開け放った座敷の上の男女である。若い男は客、女は前垂を付けているので仲居であろう。雪洞が置かれていることと、2人の装いから夏の夕刻とみることができる。仲居が、はだけた胸にちょこんと右手を置いているのは気取った時ののポーズである。石垣などの様子から、安永・天明期に隅田川の下流の中洲に造られた一大歓楽境を描いた図と考定してよい。川面に小さなはしごを設けているのは、屋根舟などから直に上がれるようにという配慮である。中洲の築地は寛政元年には取り払わてれたので、その生命は20年に満たなかったが、繁栄のありさまは浮世絵版画をはじめ、洒落本、黄表紙など多くのものに記録されている。本図は、今まで紹介されたことのない新出の1枚である。
勝重という絵師には、江戸時代前期の岩佐勝重と文政(1818〜30)期に活躍したという歌川勝重がいるが、いずれも時代と様式が合わない。この図は、天明期の窪俊満の様式に近い。『原色浮世絵大百科事典』等に載っていない未登録の絵師であるが、ギメ美術館所蔵の《見立妹背山》(柱絵判錦絵)が『秘蔵浮世絵大観 ギメ美術館』に紹介されているので、天明期の勝重の作としては、これで2点確認されたことになる。

解説:千葉市美術館学芸課長・東洋文庫研究員 浅野秀剛

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勝川春潮「夏の外出」

大判錦絵 39.1×25.7cm 
天明(1781〜89)中期 
署名「春潮画」 
村田屋治郎兵衛版

絣の振袖の娘と薄物を着た母親と思われる女性の外出である。2人はほこり除けの掲帽子を被り、裾が汚れないよう腰帯を締めている。おそらく武家の妻女であろう。母親と共の女が持つのは、当時流行の青日傘である。最後尾に守り刀を持つ少女が付き従っている。
すらりと伸びた健康的な八頭身の美人は、鳥居清長やこの春潮らによって生み出された、天明中期の浮世絵美人画の一大特徴である。本図などもその典型的な例といってよい。清長の当該期の代表的シリーズである《風俗東之錦》の春潮版ともいえる村田屋治郎兵衛版(右下に「栄邑堂」の印が捺されている)の揃物名のない連作の1図と考えられる。同種のものに《梅見》(大判)、《羽根突き》(大判二枚続)、《牡丹見物》(大判二枚続)、《柳の庭》(大判二枚続)がある。本図は、保存完好の美麗な遺品であり、当時の品格ある色彩を鑑賞することができる。

解説:千葉市美術館学芸課長・東洋文庫研究員 浅野秀剛

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鳥居清長 「伊勢物語 芥川」

大判錦絵揃物の一 39.1×26.2cm 
 天明(1781〜89)後期 
署名「清長画」 
版元未詳

山東京伝が寛政6年(1794)に刊行した滑稽本に『絵兄弟』というのがある。類似図様・類似姿形の2図を対比的に描き、その2図を絵兄弟として扱う面白さを狙ったもので、絵画におけるやつしや見立の手法と共通するものである。喜多川歌麿はその趣向を早速浮世絵版画に取り入れ、《絵兄弟》と題する大判のシリーズを刊行した。
この清長の《伊勢物語》は、歌麿画の《絵兄弟》の趣向と同一のものといってよく、しかも歌麿より8、9年早い作例である。右上のこま絵は『伊勢物語』第六段の「芥川」の図(野原の追手は、第十二段の「武蔵野」図のイメージが混入したもの)で、「しら玉かなにそと人のとひしとき、露とこたへて消なましものを」はその段に記されている和歌。下の図は、浄瑠璃「桂川連理柵」などで知られる、少女お半と、中年男長右衛門である。お半を背負い、桂川に入る長右衛門の姿と、芥川の図が類似することから、両者を同一画面に構成したもの。同じシリーズに《伊勢物語 業平吾妻下り(下に当世風の旅する馬上の女性を描く)》(ボストン美術館蔵)がある。本図は、保存状態が非常に良好であるばかりでなく、現在のところ東洋文庫蔵品以外知られていない稀品である。

解説:千葉市美術館学芸課長・東洋文庫研究員 浅野秀剛

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鳥居清長「女風俗十寸鏡 線香花火」

中判錦絵揃物の一 23.8×18.3cm 
寛政(1789〜1801)初期頃
署名「清長画」 
版元未詳

明和2年(1765)に、完成された多色摺木版画である錦絵が誕生して以来、7、8年から10年くらいを1サイクルとして、次から次と各時代を象徴する美人絵師が登場し、その時代の様式をリードした。明和期の鈴木春信、安永期の礒田湖龍斎、天明期の鳥居清長、寛政期の喜多川歌麿がそれである。天明期の鳥居清長は、大判の美人風俗画も制作したが、それ以上に中判(大判の半分の大きさ)の美人風俗画の揃物を量産し、江戸の人々の需要に応じた。本図もそういったものの一例である。
「十寸鏡」とは、真澄の鏡、すなわちよく澄んで明らかな鏡の意で、《女風俗十寸鏡》とは、当世の女性の風俗をそのままに写し取った揃物の意味となる。副題はなく、現在9図を確認できるが、おそらく10枚揃であろう。夏の夕、床几で花火に興じる若い娘と少女を描いている。京都の絵師、西川祐信の作品に『女一代風俗 絵本十寸鏡』(墨摺絵本3冊、1748年刊)があり、清長はおそらく趣向をそれに倣ったものと推定されるが、図様を直接模倣してはいない。清長はこの揃物とほぼ同時期に一まわり大きい間判の同題の揃物を版元・伊勢屋治助から刊行しているので、このシリーズも伊勢治版である可能性が大きい。  

解説:千葉市美術館学芸課長・東洋文庫研究員 浅野秀剛

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鳥文斎栄之「風俗略六芸 十種香」

大判錦絵六枚揃の一 38.6×26.2cm 
寛政(1789〜1801)中期
署名「栄之圖」 
西村屋与八版 「極」印

香を聞く(嗅ぐ)打掛姿の女性である。髷の形が片はずしのように見えるので、大名・旗本など上級武家の御殿女中を想定していると考えられる。打掛の輪郭線を濃墨に、他の輪郭線を薄墨にするなどの配慮により、栄之独特の典雅な美人画に仕上がっている。
栞形枠内に揃物名と副題、波形輪内に花を添えるという栄之様ともいえる形式のシリーズで、揃物名を《風俗略六芸》とした《十種香》《茶湯》《和哥》《琴》と、《風流略六芸》とした《生花》《画》の六枚揃。六芸とは、古代中国で士以上の者の必修とされた礼・楽・射・御・書・数の6種の技芸である。安永(1772〜81)期の礒田湖龍斎は、《風流やつし六芸》と題して、中国の六芸を当世風俗にやつした中判揃物を刊行しているが、栄之は、更にそれの副題を変え、日本女性の嗜むべき芸にやつしている。十種香とは梅檀など10種類の香、または数種の香を10回たいて香名を当てる遊びをいうが、ここでは香を象徴しているとみてよい。波形輪内には紅葉が描かれている。

解説:千葉市美術館学芸課長・東洋文庫研究員 浅野秀剛

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鳥文斎栄之「夏宵遊興」

大判錦絵三枚続 
右:39.6×25.7cm 中:39.6×25.6cm 左:39.6×26.1 
寛政7、8年(1795、96) 
署名「栄之圖」 
岩戸屋喜三郎版 「極」印

夏の宵、座敷の酒宴に芸者を呼んで、種々の芸を楽しんでいる様を描いている。一見、高級料理茶屋に遊ぶお大尽という風であるが、行灯や衝立、御簾や蒔絵の膳などの調度の並々ならぬ拵えや、御殿女中特有の片はずしの髷を結っている女性が多いことから、大名・旗本が、町の芸者を呼んで一夜を楽しんでいる態を想定したものであろう。画面右の主人に向かい合って三味線を手にする振袖の女性は、左端に置かれた三味線箱の桜草の紋より富本節の芸妓であることが示されている。左方の綟張りの衝立を隔てて芸をしようとしているのが男芸者。少女が何やら小道具を渡そうとしている。寛政4年跋『絵本大人遊』には、座敷における種々な幇間芸が載っており、当時、そのようなものが盛んだったことが了解される。この三枚続は、早くから栄之の代表作として知られていたが、東洋文庫所蔵品は保存の完璧な1組といってよい。

解説:千葉市美術館学芸課長・東洋文庫研究員 浅野秀剛

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鳥文斎栄昌「扇屋花扇他所行」

大判錦絵三枚続 各37.2×24.3cm 
寛政7、8年(1795、96)頃 
署名「栄昌畫」 
榎本屋吉兵衛版

吉原の遊女は、許可なく吉原の外へ出ることは許されなかったが、妓楼によっては3月の桜の季節に、全員で神社仏閣見物や花見に出かけて春の一日を楽しむこともあった。それを禿の花見とも言ったという。本図はその情景を描いたものと思われる。花扇は、吉原の江戸町1丁目の大籬扇屋宇右衛門抱えの「呼び出し散茶」(当時として最高位の遊女)で、当時最も評判の高かった遊女である。中央で右方を振り返る女性が花扇であろう。他の女性たちも扇屋の遊女や新造・禿と思われるが、廓外であるので、町家の婦女の装いをしている。女性群像が三枚続の画面いっぱいに展開する華やかな作品である。

解説:千葉市美術館学芸課長・東洋文庫研究員 浅野秀剛

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栄松斎長喜 「風流挿花会」

間判錦絵三枚続の左 32.5×22.3cm 
寛政(1789〜1801)中期
署名「長喜画」 
鶴屋喜右衛門版

挿花の発表会を描いた三枚続。展示された挿花作品を背景に、右図と中図には、御祝儀を持ってきた婦人、銚子で酒を注ごうとする女や杯を持つ女などが描かれている(吉田暎二『浮世絵事典』、『浮世絵大成』第7巻、ベベール・コレクションなどを参照)。この図の火鉢を前に坐る女性は会主であろうか。この期の続絵は、1枚1枚に分けても鑑賞可能な構成になっており、保存の良い本図はこれだけでも見応え十分である。
長喜は、寛政期に、歌麿と栄之と一線を画してどちらの様式にも傾かず、独立した一派を形成した絵師である。本図からも看取される親近感のある柔和な面差しのつましく穏やかな長喜美人は、歌麿や栄之とはまた別趣の魅力を備えている。

解説:千葉市美術館学芸課長・東洋文庫研究員 浅野秀剛

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喜多川歌麿「咲分ヶ言葉の花 おしゃべり、にくまれ盛」

大判錦絵 36.0×25.0cm 
享和2年(1802)
署名「哥麿筆」
「山村」版

女性の姿態を半身に描き、いかにもそれらの女性が言いそうな台詞を画中に書きいれた揃物の一。揃物名の周囲に種々の花を添え、「咲き分ける言葉の花」を象徴させている。十枚揃いであるが、そのうち、この図のように2種2人の女性を描いたのが2図ある。享和期に歌麿が盛んに手がけた観相(顔の相を見る)物の一種である。当時の話し言葉がそのまま記録されているという点でも興味深いシリーズ。
この図は、おしゃべりな母親と、あかんべえをしているにくまれ盛りの少女である。画中の台詞は次のとり。
おしゃべり
おやきついおてうしだの アイしれねへからさきのつじばんできゝやしやう おめへもうちへおかへりならおとつさんにさういつておくれ おくらまへのくろふねてうの くろこめどんやのくろべへさんのおばアさんが くろいづきんがほしいといゝなすつた そしてせんぼこうだいじのおいちがおたすけおどりにでたからよんでごらんといっておくれ

にくまれ盛
わたしやいや なぜのかミがきつねにばかされたからさ アイさやうさ いんのはゞのねへところへそつくりとおいておくれ おめへのおせわにやァかけやせん いらぬおせわ おかまひやるな

解説:千葉市美術館学芸課長・東洋文庫研究員 浅野秀剛

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喜多川歌麿「高島おひさ」

大判錦絵 36.8×24.7cm 
寛政5年(1793)頃 
署名「哥麿筆」
蔦屋重三郎版 「極」印

背景を白雲母摺にした豪華な大首絵。同様な形式の《難波屋おきた》と対になる。
おひさは、江戸両国薬研堀米沢町2丁目の煎餅屋高島長兵衛の娘で、家で経営する両国の水茶屋に出ていたらしい。娘評判記『水茶屋度紋娘百人一笑』によれば、寛政5年には17歳であったという。当時、難波屋おきたと並ぶ美人として評判となり、数十種の錦絵が残されている。本図は、その中でもとりわけ著名な作品。保存も申し分なく、当時の色調を鑑賞できる逸品といってよい。
画中の短冊には、おひさを詠み込んだ次のような狂歌が記されている。
「愛敬も茶もこぼれつつさめぬなり/よいはつ夢のたかしまやとて/唐花忠紋」
おひさは後に、浅草の煎餅屋へ嫁いだというが、詳細は伝わらない。

解説:千葉市美術館学芸課長・東洋文庫研究員 浅野秀剛

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喜多川歌麿「錦織歌麿形新模様 うちかけ」

大判錦絵 37.8×25.5cm 
寛政9年(1797)頃 
署名「哥麿筆」
鶴屋喜右衛門版

うちかけを着した盛装の吉原の花魁である。墨線を極度におさえ、色線や没骨無線の色面を多様した全身坐姿の三枚揃の1枚。同種の先行作に《娘日時計》五枚揃があるが、《娘日時計》が頬を無線とし、唇を紅のみで表現するなど、顔部にのみ新趣向を採用しているのに比べ、本揃物は、衣装を色面で表現することに重点を置いている。
本図の遺品は少なくとも7点確認されている。そのすべてと比較してはいないが、東洋文庫蔵品は、標準的な伝品(大英博物館、ベルリン博物館、ニューヨーク公立図書館など。前2者には鶴屋喜右衛門の版元印があるが、ニューヨーク公立図書館蔵品には版元印がない)と主版(墨版)は同一であるが、色版はすべて異なっている。加えて、標準的な伝品にみられる口紅の色版や、麻の葉模様の襟の背景の色版(薄紫か)がないなどの違いがある。墨線を比較してみると、標準的な伝品の方が第1版で、東洋文庫蔵品は色版をすべて変えた後摺の第2版と考えられる。第2版を出した理由はわからない。しかし、首の回りの白い襟の空摺や、うちかけの薄紅が鮮やかに残る本品は保存が完璧に近い。従来、「白うちかけ」と題されてきたこの作品は、すべて退色したうちかけの色を見てのものであったことを付記しておきたい。
また、この揃物は、こま絵の巻子に他の絵師をへいげいした歌麿自讃の文が入っている事でも知られている。この図のこま絵の文は次のとおりである。
「筆意の媚うるハしく 墨色の容顔たをやかなれハ たとへ麁画のつゞれ草筆の素裸を画とも 予が活筆は姓〓(女偏に施の旁)なり また紅藍紫青の錦をまき 紅粉ニてかの不艶君を塗かくせども庸画の浅ましさにハ日追て五躰の不具を顕し 其情愛をうしのふにおよぶ 依て予か筆料ハ鼻とともに高し 千金の太夫にくらぶれバ 辻君ハ下直なるものと思ひ 安物を買こむ板元の鼻ひしけをしめす」


解説:千葉市美術館学芸課長・東洋文庫研究員 浅野秀剛

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喜多川歌麿「金魚遊び」

大判錦絵 37.0×25.9cm 
寛政11年(1799)頃 
名「哥麿筆」
近江屋権九郎版

振袖の若い娘と、更に年若の少女が金魚を賞玩し戯れている図である。銅製と思われる大金魚鉢には金魚ばかりでなくめだかも泳いでいる。傍らには墨絵の描かれた衝立があり、絣の薄物が掛けられている。
歌麿は、浅草茅町2丁目の新興版元・近江屋権九郎から、寛政後期から享和にかけて、日常生活のひとこまを題材にした作品を11図(夢や化物関連のものを加えると14図)刊行している。この図はその中でも比較的早い様式を示すもの。娘の持つ団扇には三升の紋とともに「御ひさもと 我ははなれぬ 団扇哉/団三郎書」という俳諧が記されている。この団三郎は、四代目市川団三郎(後の五代目市川団蔵)である。団三郎は、寛政10年7月に養父の四代目団蔵とともに初めて江戸に下っているので、様式を勘案すると、その次の寛政11年の夏頃に制作されたものと推定される。

解説:千葉市美術館学芸課長・東洋文庫研究員 浅野秀剛

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喜多川歌麿「御殿山の花見駕籠」

大判錦絵三枚続 
右:39.5×26.8cm 中:38.8×25.8cm 左:38.4×26.2cm
文化2年(1805)
署名「哥麿筆」
〓(入り山形に久)(版元印、未詳) 「極」印、「十二」(文化2年12月の改印)
版元印未詳

品川の海を一望できる御殿山に、花見に来た大名家の姫君をイメージした作品。駕籠から降りようとする姫君を囲む御殿女中たちが描かれているが、駕籠かきなどの姿は省き、風俗も町屋の風にするなど、一種の想像画と考えてよい。改印を信ずれば、歌麿の没する前年の暮に検閲を受けた作品で、文化三年春の売り出しと想定される。入り山形に「久」の字の版元から版行した歌麿作品は他になく、歌麿の最晩年に版元がその人気をあてこんで依頼したものと考えてよいであろう。

解説:千葉市美術館学芸課長・東洋文庫研究員 浅野秀剛

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北尾政演「町を行く母と娘」

柱絵判錦絵 68.6×12.0cm 
天明(1781〜89)初期頃 
署名「北尾政演画(花押)」
版元未詳

政演は、戯作名を山東京伝という。浮世絵師としてよりも戯作者として著名であるが、安永後期から天明期は、絵師としても活躍し、黄表紙の挿画や錦絵を多く残している。本図は、路を行く母と娘と思われるが、背景に何らかの物語が潜んでいるのかもしれない。他に、シカゴ美術館蔵品が知られている。

解説:千葉市美術館学芸課長・東洋文庫研究員 浅野秀剛

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渓齋英泉「仇競今様姿 しん地の海」

大判錦絵揃物の一 37.0×26.0cm 
文政(1818〜30)後期
署名「渓齋英泉画」 
川口屋正蔵版 「極」印

江戸の各所の風景を背景にして立つ当世美人のシリーズの一で、佃島を背景にした深川大新地の遊女を描いている。本図は、朝倉無声編『岡場所風俗図志』2帖に貼付されているもの。題名が示すように、江戸の各所の岡場所風俗を解説したもので、英泉や国貞などによる錦絵も多数貼り込まれた興味深い遺品である。

解説:千葉市美術館学芸課長・東洋文庫研究員 浅野秀剛

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歌川豊国「丸木橋を渡る女たち」

大判錦絵三枚続 各38.3×25.3cm 
文化(1804〜18)初期 
署名「豊国画」 
署名「豊國画」 山田屋三四郎版 「極」印

萩が咲き紅葉が紅くなった庭に架かる丸木橋を女性たちが列をなして渡っている異様な情景である。中央の振袖の女性がおそらく姫君で、彼女を囲繞する集団ということになるが、この図に必要以上のリアリティを要求することはせず、丸木に並ぶ女性群像を鑑賞すれば十分であろう。この期の豊国描く女性は量感にすぐれ、その女性たちが重なり連なる躍動美が、保存完好な遺品から十二分に伝わってくる。
豊国は盲人が丸木橋を渡る姿を描いた同工の三枚続を寛政(1789〜1801)末頃に制作刊行している(東京国立博物館蔵)ので、本図はそれを女性に換えた作品ということになる。豊国としては知られたものであるが、展覧されることのほとんどなかった1図である。

解説:千葉市美術館学芸課長・東洋文庫研究員 浅野秀剛

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歌川国芳「人形之内 唐天朝三美人」

大判錦絵二枚続 各36.2×27.4cm 
安政3年(1856) 
署名「一勇齋国芳画」(芳桐印) 「佐七刻」
「本茂」版 「辰三」「改」(安政3年3月の改印)

安政3年3月20日から深川永代寺で成田山不動尊の開帳を行った折に、境内で催した大江忠兵衛による生人形の見世物に取材した作品。唐土・天竺・本朝(日本)の三美人がそれぞれ琵琶・琴・笙を合奏する姿を描いている。
 『見世物絵』と題された貼込帖1冊に収められているもの。その貼込帖には、幕末の錦絵を中心に33点が収載されている。

解説:千葉市美術館学芸課長・東洋文庫研究員 浅野秀剛

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