長谷川雪旦 『東都歳時記』 |
墨摺風俗書 4巻附録5冊 23.0×15.8cm 齋藤月岑編 長谷川雪旦画 同雪堤補画 天保9年(1838)春刊 須原屋茂兵衛・須原屋伊八版 江戸の武家及び民間の年中行事を網羅的に集成したもの。正月から年末まで月日順に記載し、その後に附録を付す。近世の風俗資料として重要なもの。雪旦・雪堤父子の挿図は全73図。掲載図は雪旦画《元旦諸侯御登城図》。江戸年中行事を記した書物の中で最も優れたもの。およそ江戸の人士の遊覧する府内・近郊の名所を四季の順に従って述べ、神社の祭礼や仏寺の法会はもちろん、上流下層の年中行事、四時の景物を網羅する。甲子で日を決める行事は、その月の後ろに、毎月行なわれるものは正月におさめるなど、重複を避けた周到な記述を示す。遊所、芝居の行事、寺社の由来など、他の所に詳記されるものは簡略にとどめ、農事は遊覧と関係がないということで記さない。挿絵は雪旦が描くが詳細な図柄である。ここには元旦の江戸城大手門外、江戸城参府に参集する諸大名の行列の盛況を示す。(参考:長沢規矩也『江戸地誌解説稿』) 解説:千葉市美術館学芸課長・東洋文庫研究員 浅野秀剛 東洋文庫理事 田仲一成 大画像を見る |
鳥文斎栄之「小舟町天王祭礼図」 |
大判錦絵三枚続 右:38.6×26.3cm 中:38.5×26.2cm 左:38.6×26.3cm 天明(1781〜89)後期〜寛政(1789〜1801)初期 署名「榮之畫」 西村屋与八版 「天王御祭礼」「祇園会御祭礼」の幟から、6月に行われた天王祭(祇園祭)の賑いを描いたものと了解される。天王祭は江戸の各所で行われたが、神田明神の摂社である天王三社(一の宮から三の宮まである。一の宮を御旅所の町名より南伝馬町天王、二の宮を同じく大伝馬町天王、三の宮を同じく小舟町天王ともいう)の祭礼が最も大きくかつ華やかであった。本図は、中央に大注連縄が飾られ、左に蔵が並ぶ(小舟町1丁目は西側が蔵地となっていた)ことなどから、小舟町の御旅所を描いたものと考定される。三の宮の御輿は旧暦6月10日に小舟町1丁目の御旅所へ神幸あって、13日に帰社した。 図の町木戸手前には、夏装の女性を中心に20名余の人物が配されている。左には「川口屋」の飴などを売る露店も描かれている。中央上部の大行灯は、素戔嗚尊の八岐大蛇退治、右端には奇稲田姫も描かれ、下方には八つの瓶の飾り物も吊り下げられている。 鳥文斎栄之は歌麿と同時期に活躍した直参旗本の浮世絵師。この三枚続は、栄之の早い時期の作品。従来の栄之の作品目録に載っていないという点では新発見の図といってよい。 解説:千葉市美術館学芸課長・東洋文庫研究員 浅野秀剛 大画像を見る |
鳥居清満「浮絵御祭礼之図」 |
横大判紅摺絵 32.5×44.8cm 宝暦(1751〜64)後期頃 署名「鳥居清滿画」 西村屋与八版 浮絵とは遠近透視画法を極端な形で用いて、距離感を強調した作品をいう。1740年代から版画・肉筆画ともに描かれるようになるが、版画の浮絵は奥村政信が創始したと思われる。この図は、紅摺絵時代になってから、版元・西村屋与八から刊行された連作の1枚である。鳥居家の三代目当主である清満の作であり、右側の建物群と左側の建物群の消失点が一致しないなど、描法に稚拙な面はみられるが、江戸の祭礼(天王祭などを念頭に置いたものであろう)の賑々しさを素朴に伝えてくれる。何よりも色彩がすばらしい。青系の色(露草か?)が退色しているものの、宝暦期の紅摺絵がこれほど鮮やかに今に伝わることは珍しい。墨に赤・黄・青、そして摺り重ねた緑と紫が識別でき、左辺に版元が記した「風流江戸絵五色墨元祖」という記載の示すとおりの状態である。 西村屋与八が「風流江戸絵五色墨元祖」と記したのは、浮絵における紅摺絵を創製した意と考えられる。同様の記載のある作品は、他に清満画《浮絵新吉原之図》、同《浮絵御大名江戸入品川風景》、同《浮絵近江八景図》、同《浮絵両国涼之図》、同《浮絵新吉原紋日之図》、鳥居清経画《風流やつし十二段浮絵の図》、西村重長画《浮絵御祭礼唐人行列絵巻》が確かめられる。本図は、従来紹介されたことのない新出の1図と思われる。 解説:千葉市美術館学芸課長・東洋文庫研究員 浅野秀剛 大画像を見る |
加組「江戸火災之真写」 |
写本・彩色画 24.3×18.5cm 巻頭に「江戸大火事之図、高□屋」とあり、巻末に東都神田住人、加組直筆の署名がある。加賀屋敷の赤門前で、火事を知って家財を広場に運び、避難を開始する町人、火事場に急行する町火消しの動きを皮切りに、燃える土蔵造りの町屋、纏を中心に武家屋敷の土塀沿いに勢ぞろいして行進する火消し人足の隊伍、掘割の橋詰に建つ商家の火災、屋根に纏を立て消火にあたる火消したち、高見より火事を遠望して出動する火消し、川沿いの寺院の大火事、周辺の家屋を破壊して類焼を防ぐ火消し、大川下流沿いの商家の大火、堀川の沿岸に立つ武家屋敷の大火などを絵巻物風に描く。 解説:東洋文庫理事 田仲一成 大画像を見る |
「明和版江戸図」(大火焼失場朱入) |
版刻図 63.0×88.3cm 安永(1772〜80)年間 奥村喜兵衛版 明和9年の大火を詠んだ瀧水子(大田南畝)の戯作七言詩「明和大火行」に合帙された焼失図。詩によると、旧暦2月27日、西南の風に乗って目黒行人坂から出火、赤羽橋→善福寺→鳥居坂→虎ノ門→霞ヶ関→桜田→八重洲河岸→常盤橋→龍の口→鎌倉河岸→神田今川→鍛冶橋→昌平橋→伝馬町→三井越後屋→湯島駿河台→上野下谷→浅草→本郷→根津→千住まで類焼したという。作者大田南畝は蜀山人、四方山人の号で有名な戯作者。地図は焼失区域を朱色で示してあり、江戸の西北の武家屋敷町から東南に類焼し、繁華街の京橋、日本橋、伝馬町を焼き、更に北上して神田から上野、浅草に類焼し、千住で止まったことがわかる。江戸城の外城とこれに接する繁華街、町人、職人の町を焼き尽くしたことになる。「大火行」は次のように詠ずる。 「壬辰仲春廿七日、西南の風起こりて埃は天を覆う。燃え出す目黒行人坂、大日堂主一炬の煙。白銀台上黒土と成り、赤羽橋辺青草を見る。走り入る善福光明寺、残らず煙上りて火に焼かるるを観る。曽って見る仏壇極楽の如きも、今知る山中阿鼻に似たり。一本松忽ち緑色を失い、六本樹なお樹を知らず。鳥居坂固より朱籬を現し、飯倉町飯を食わず。虎の門に居れば嘯きて風益々強く、霞ケ関聳えて煙彌々凝る。(中略)常盤橋紅葉の色を成し、瀧の口急に雨を降すに由なし。泉は鎌倉の岸に飛んで程社あり、新石大工白銀町。神田今川弁慶橋、鍛冶鍋町より昌平に到る。伝馬牢舎罪人を放ち、十間の雛廓春情を損ず。十七屋蔵は金鉄と称し、三井棟上世間に鳴る。妻恋湯島駿河台、上野下谷浅草辺、聖堂の余煙仰げば彌々高く、仁王の首骨彌々堅し。(中略)本願の弥陀火焔々、金龍観音雨漉々。田畝の炎は乱れて六卿危く、山谷の煙斜めにして団左炙く。溜まりの囚人吟ずること屈原のごとく、廓の妓女悲しむこと王昭に似たり。(中略)権現宮殿寧ろ平窩、蟠随の別殿上野の廟。感応五重大塔婆、焼き尽くす江北数十程。是に於いて南西火翩々、千住の宿焚けて橋纔に残る。(下略)」 解説:東洋文庫理事 田仲一成 大画像を見る |
西村重長「両こく橋すゞみの景色」 |
横大判墨摺筆彩 33.0×47.8cm 延享(1744〜48)頃 署名「仙花堂西村重長筆」 版元・〓(◇のなかに本)(未詳) 図15の清満作より一時代早い、筆彩色の浮絵である。西両国辺りの料理茶屋の座敷から隅田川・両国橋を眺めた光景と思われるが、右辺のやや中央に収斂していく建物に対し、左の屋外は別の視点で描かれており、その自在な組合わせがかえって興をそそられる。柱などが遠くに行くにしたがって急激に小さくなるのに比し、人物の小さくなる割合がさほどでないのも浮世絵の融通無碍さを実感する。 枠外右下にみえる商標の示す版元名は解らないが、同一版元から刊行された重長の横大判墨摺筆彩の浮絵は他に《品川月見の景色》《芝居きやうげんの図》《よしはら二階ざしき図》がある。そのうちの《芝居きやうげんの図》(太田記念美術館蔵)が、延享3年正月の市村座の舞台を写していることから、他の図もその頃の刊行と推定される。 本図は、従来、枠の外が削除された東京国立博物館の所蔵品が知られてきたが、ほぼ完好のこの遺品の出現により、題名や作者を確定することが可能になった。 解説:千葉市美術館学芸課長・東洋文庫研究員 浅野秀剛 大画像を見る |
歌川国丸「江戸両国納涼之図」 |
大判錦絵三枚続 38.0×76.0cm 文政(1818〜36) 署名「歌川一圓斎國丸畫」 版元・まつ村(未詳) 「極」印 両国橋周辺及び橋上の納涼の賑わいを描いた三枚続。川面には屋形船・屋根舟や物売り舟・猪牙舟などが所せましと往来している。屋形船のうち「川一丸」は実在の船であるが、左側の「歌川」の提灯を連ねた船は歌川一門の宣伝とみてよい。左下は、両国橋西詰南側の水茶屋である。右側に木太刀を掲げて川に入る一団が描かれているが、相模の大山詣の者が水垢離をしている情景である。当時は両国橋東詰の南に垢離場があり、そこから川に入る慣わしであった。国丸(1793〜1829)は、国安・国直と共に初代豊国門の三羽烏の1人といわれた。『風俗絵』貼込帖4冊に収められている作品。 解説:千葉市美術館学芸課長・東洋文庫研究員 浅野秀剛 大画像を見る |
歌川国郷「両国大相撲繁栄之図」 |
大判錦絵三枚続 36.5×75.8cm 嘉永6年(1853) 署名「立川斎國郷画」 大黒屋平吉版 「丑十」「福」「村松」(嘉永6年10月の改印) 両国回向院境内で開催された勧進大相撲の賑わいを描いたもの。鳥瞰図法を用いて、上空から見下ろすように描いているが、配置は自在で、右上に両国橋、左上に一つ目橋を置き、前景は右から左へ太鼓櫓・回向院表門・積物・土俵と続く。嘉永6年10月の改印があるが、この年の冬場所は11月であったので、興行に先立って制作刊行されたことになる。国郷(?〜1858)は三代歌川豊国(初代国貞)門人の幕末の浮世絵師。図19と同様、『風俗絵』貼込帖4冊に収められている作品。 図19と同様、『風俗絵』貼込帖四冊に収められている作品。 解説:千葉市美術館学芸課長・東洋文庫研究員 浅野秀剛 大画像を見る |
菱川師宣『江戸雀』 |
墨摺名所記 12巻12冊 各27.3×19.2cm 近行遠通撰 菱川師宣画 延宝5年(1677)刊 鶴屋喜右衛門版 江戸で開板された最古の地理書。著者の近行遠通は、遠近道印と同一人物で、富山藩医藤井半知と推定されている。江戸の各所を描いた34図の師宣の挿図は秀逸で、延宝中期の師宣の基準作となっている。東洋文庫本は、著者名が削除された第二印本。 掲載図は、吉原の廓内風景。右端は吉原大門、そして茶屋に遊女屋及び路上で遊女の道中を見物する人々が描かれている。(参考:長沢規矩也『江戸地誌解説稿』) 解説:東洋文庫理事 田仲一成 大画像を見る |
鍬形紹意「東海道細見大絵図」 |
多色摺版刻図 69.5×139.8cm 松亭金水撰 鍬形紹意画 江戸末期 市谷八幡町佐野屋市五郎版 東海道五十三宿を双六風に鳥瞰図として描く。鍬形紹意は江戸鳥瞰図を描いた鍬形紹真の実子である。この図も着想が紹真の江戸図に似ている。化政期の作か。画面を左・中・右の3段に配置。左段は下の江戸から上に向かって街道筋を蛇行させながら富士山を迂回する由井・奥津までを描く。ここに1.日本橋→2.品川→3.川崎→4.神奈川→5.程ケ谷→6.戸塚→7.大磯→8.小田原→9.箱根→10.三島→11.沼津→12.原→13.吉原→14.蒲原→15.由井→16.奥津の順に宿駅が進行し、富士山麓を回ってこの段の上限が終わる。続く中段は上から下へ、奥津から名古屋までの道を描く。17.江尻→18.府中→19.丸子→20.岡部→21.藤枝→22.島田→23.金谷→24.日坂→25.掛川→26.袋井→27.見付→28.浜松→29.舞坂→30.荒井→31.白須賀→32.二タ川→33.吉田→34.御油→35.赤坂→36.藤川→37.岡崎までが入る。下限は岡崎城で終わる。途上にある多数の河川の渡し場を克明に描く。右段は下から上へ名古屋から終着の京都三条大橋までを描く。38.池鯉鮒→39.鳴海→40.宮→41.桑名→42.四日市→43.石薬師→44.庄野→45.亀山→46.関→47.坂下→48.土山→49.水口→50.石部→51.草津→52.大津→53.三条大橋が入る。下部に名古屋城、上部終着点に京都御所と二条城が描かれる。上部余白には、五十三次各宿の名物、土産等を紹介しており、旅行案内の特徴が出ている。 解説:東洋文庫理事 田仲一成 大画像を見る |
葛飾北斎「諸国滝廻り」 |
大判錦絵八枚揃 東都葵ヶ岡の滝:37.0×24.5cm 下野黒髪山きりふりの滝:37.0×24.5cm 東海道坂ノ下清滝くわんおん:37.2×24.5cm 美濃ノ国養老の滝:37.0×24.5cm 相州大山ろうべんの滝:37.1×24.4cm 和州吉野義経馬洗滝:37.1×24.6cm 木曽海道小野ノ瀑布:37.0×24.5cm 木曽路ノ奥阿彌陀ヶ滝:37.0×24.5cm 天保3、4年(1832、33) 署名「前北齋爲一筆」 西村屋与八版 「極」印 (《木曽路ノ奥阿彌陀ヶ滝》のみ極印と版元印なし) 諸国の八つの滝の姿を描き分けたシリーズ、8種の滝は、北斎によって殊更その違いを誇張されて描出されており、その意味では北斎の造形の妙を十二分に味わうことのできる連作といえるだろう。8図は、署名の「爲」の字が楷書となっている《東都葵ヶ岡の滝》《下野黒髪山きりふりの滝》《東海道坂ノ下清滝くわんおん》《美濃ノ国養老の滝》の4図と、草書となっている《相州大山ろうべんの滝》《和州吉野義経馬洗滝》《木曽海道小野ノ瀑布》《木曽路ノ奥阿彌陀ヶ滝》の4図に分けられる。前の4図が先に版行され、やや間を置いて後の4図が版行されたものと推定される。その時期は、天保3、4年頃。《富嶽三十六景》が完結するより前と推定されるので、版元の西村屋与八は《富嶽三十六景》の売れ行きをみながら、種々の名所絵を北斎に依頼し、市場の動向に合わせながら並行して出版したものと考えられる。 《東都葵ヶ岡の滝》。江戸の赤坂溜池の北、葵岡に落ちる堰を指すと思われる。静かに穏やかに落ちる滝である。 大画像を見る 《下野黒髪山きりふりの滝》。黒髪山は、男体山の別名。日光三名瀑の一つである霧降の滝である。体の中の血液が枝分れしながら流れ行く様に似て、滝に生命があるかのようである。 大画像を見る 《東海道坂ノ下清滝くわんおん》。東海道坂の下宿にある小さな滝。画中にもあるように、滝の傍に石堂があり、清滝観音と呼ばれている。北斎の描く滝は、小さな流れが岩肌を伝って幾筋かに分れ、ゆったりと落ちて行く。 大画像を見る 《美濃ノ国養老の滝》。孝子伝説で有名な岐阜県養老町にある名瀑。実際は、高さが約30メートルあるが、この図はかなり低い。8図中最も自然な様態の滝となっている。 大画像を見る 《相州大山ろうべんの滝》。相模の大山石尊大権現へ参詣する人々が、良弁の滝で垢離をとる様を描いている。やや横向きに滝を捉え、滝壷の波立ちと人々の交歓、かなり上まで描かれた白い飛沫が見どころといえよう。 大画像を見る 《和州吉野義経馬洗滝》。義経が馬を洗ったという伝説がある吉野の小滝。上部で左向きに流れを変えた滝が、2人が馬を洗っている所で再び右に変え、更に左に変わって画面の左端に達している。 大画像を見る 《木曽海道小野ノ瀑布》。信州上松宿の近くにある著名な滝。北斎自身、『北斎漫画』七編(文化14年刊)に見開き全部を使って表し、広重も「木曽海道六拾九次之内 上ヶ松」でこの滝を描いている。滝に向かって左方向から捉えているため、上部が一度盛り上がり、それから落下する。 大画像を見る 《木曽路ノ奥阿彌陀ヶ滝》。美濃国の山深い地にある大滝。落下する前の水流は、円形の中に墨流しのようにデザイン化されて表され、そこから一気に落ちる滝と見事な対比を成している。「きりふりの滝」などとともにシリーズ中でもひときわ注目される作品。 大画像を見る 解説:千葉市美術館学芸課長・東洋文庫研究員 浅野秀剛 |
杉村治兵衛「酒呑童子」 |
横大々判墨摺絵 31.0×56.7cm 貞享・元禄(1684〜1704)頃 無款 版元未詳 初期浮世絵版画の時代、菱川師宣に対抗した杉村治兵衛の作品(すべて無款であるので、正確には杉村様式の作品というべきであろうが)には、古浄瑠璃などに取材した横大々判作品が多い。その多くは図像のみであるが、上部に物語の筋を記したものも3点ほど知られている。《十二段よしつねたびのなさけ》《熊谷蓮生坊》(ともにシカゴ美術館蔵)と《土佐直伝 名古屋山三郎かつらき道行》(河浦謙一編『浮世絵版画全集』所収)である。本図も、それに類する新出の作品である。 上部の書き入れは次のとおり。 「しゅてんどうじ/こゝにたんばの国大江山といひしは、谷ふかうしてみね高く人のかよふべき所にあらず ゆきゝのたび人見えさる事をかなしみける みかど聞し召及給はせ 源のらいくはうにことのしさいを見てまいれとて かすのちんふつ下し給ひけり それより四天王と名を誉しすへたけ・さたみつ・ほうしやう・つな・きんとき かれらを御ともにて 谷へさがりみねにのぼりわけ入給へは 石のいわや有 これをたつね聞しに とうしの住しいわやなりとそおしえける」図は、酒呑童子の住む岩屋へ着いた源頼光と5人の武者たちである。上部に書き入れのある横大々判作品は、師宣様式の作も知られているが、それらは、上部の4分の1を横線で画然と区切る形式となっており、その点、治兵衛様式と異なることを付記しておきたい。 解説:千葉市美術館学芸課長・東洋文庫研究員 浅野秀剛 大画像を見る |
鳥文斎栄之・葛飾北斎 「錦摺女三十六歌仙」小野小町 |
彩色摺絵本(歌書) 1帖 24.8×18.7cm 花形義融編 鳥文斎栄之・葛飾北斎画 寛政13年(1801)春刊 西村与八版 江戸長谷川町の花形義融門下の6歳から15歳までの少女36人に、女房三十六人歌合の和歌を書かせ、歌仙画を栄之に依頼してまとめた豪華絵本。プルヴェラー・コレクションには、「錦摺女三十六歌仙」と記された包紙と、元の木箱まで備わった完全なものが伝わっている。少女の親から金を集め、かなりの金額を版元に渡した、スポンサー付出版(入銀物)であったことは確実であり、費用を惜しまぬ彫摺はそのせいであろう。巻頭に北斎による口絵がある。 栄之は、本名を記すことをためらったようで、「細井鳥文斎筆」と変名を用いている。義融の跋には、寛政9年仲冬(11月)とあるが、刊記を信ずれば、発行は寛政13年(1801)春であり、その間3年の歳月を要したことになる。北斎の優美な口絵と、栄之の典雅な女房歌仙の競演は見事といってよいであろう。 解説:千葉市美術館学芸課長・東洋文庫研究員 浅野秀剛 大画像を見る |
奥村利信 「人形を遣う辰松八郎兵衛」 |
細判紅絵 34.0×16.5cm 享保(1716〜36)中期頃 署名「大和畫師 奥村利信筆」 印章「奥村」 和泉屋権四郎版 旅装の若い女性の人形を遣う辰松八郎兵衛(?〜1734)である。女形人形の名手とうたわれた八郎兵衛が、江戸に下ったのは享保4年(1719)といわれる。まもなく葦屋町に辰松座を興して、息子の幸助(?〜1750)と共に活躍、その評判は高く、男子の髪形、辰松風や、女子の髪形、辰松島田に名を残しているほどである。 手妻太夫とも称した辰松父子が、舞台中央で出遣いする姿を描いた浮世絵版画としては、奥村政信《辰松幸助》(細判紅絵 ロイヤル・オンタリオ美術館蔵)、無款《辰松八郎兵衛手づま人形》(細判漆絵 シンドラー・コレクション)が知られているが、本図は、新たに見出された逸品。奥村利信は奥村政信門の高弟。本図は利信の早い時期の作品で、溌剌とした生気と柔和な量感に富んでいる。 解説:千葉市美術館学芸課長・東洋文庫研究員 浅野秀剛 大画像を見る |
『観物画譜』 |
錦絵貼込帖 2帙4帖 各38.8×26.8cm 浅倉無声(1877〜1927)収集の見世物絵の貼込帖。宝暦(1751〜64)期の鳥居清満の細判作品もあるが、主として文政(1818〜30)期から明治前期までの錦絵及び墨摺引札319枚が収集されている。見世物絵の画帖としては最大規模のもので、『日本庶民文化史料集成8 寄席見世物』(三一書房、1976年)に収載されている。 掲出の図は、弘化元年(1844)2月、西両国における竹沢藤次(二代目)の曲独楽興業を描いた錦絵。いずれも歌川国芳画。 解説:千葉市美術館学芸課長・東洋文庫研究員 浅野秀剛 大画像を見る |
奥村政信 「芝居狂言舞台顔見せ大浮絵」 |
横大々判(丈長奉書全紙判)墨摺筆彩 40.8×61.0cm 延享2年(1745) 署名「江戸絵一流根元 芳月堂丹鳥齋 奥村文角政信正筆」 印「丹鳥齋」 奥村屋源六版(署名以下は他の伝品より補った) 浮世絵版画中、最も大きな判型で作られたこの作品は、「大浮絵」と題された連作中の1図である。本図は、劇場上部に下がる提灯に入った役者の紋の調査により、延享2年11月の顔見世の頃に作画されたものと考証できる。付舞台の一部をさらに客席に出した(実際の記録を写したものかは未詳)上では、市川海老蔵が矢の根五郎を演じているが、過去の上演時の好評により、政信が構築した画面(構想画)と考えて差し支えないであろう。客席に立てた柱に「木戸十六文」と見物料が記されているのも興味深い。東洋文庫所蔵品は残念ながら周囲がカットされているが、シカゴ美術館所蔵品は、右辺に題名と版元名、左辺に絵師の名が記されている。 政信による大浮絵の連作は、この図の他に《堺町葦屋町芝居繁昌大浮絵》《新吉原大門口中之町大浮絵》《新吉原二階座敷土手ヲ見通シ大浮絵》《両国橋夕涼見大浮絵》《駿河町越後屋呉服店大浮絵》の計6図が確認される。これらの作品は、歌舞伎資料や吉原細見との照合により延享2年頃に制作刊行されていることが確かめられる。その他やはり大浮絵のシリーズと推定される《(仮題)吉原座敷の景》(大英博物館・アッヘンバック版画財団蔵)を加えると、政信は、短期間に少なくとも7図の巨大な浮絵を刊行したことになる。当時の浮絵の流行が偲ばれるとともに、その最盛期における記念的出版物としての史的意義を認めることができるであろう。 解説:千葉市美術館学芸課長・東洋文庫研究員 浅野秀剛 大画像を見る |
『戯場訓蒙図彙』 |
墨摺(一部彩色摺)劇書 8巻4冊 各21.5×15.8cm 式亭三馬編著 勝川春英・歌川豊国画 享和3年(1803)正月刊 万屋太次右衛門版 『訓蒙図彙』にならって、芝居の世界のあらゆる事を分類して豊富な図とともに記述した歌舞伎入門書であるが、同時に、芝居の世界を巧みにもじった滑稽本的性格も備えたもの。全体を8巻に分け、巻七の「人物」すなわち当代の役者の似顔全身図のみを彩色摺として豊国が担当、他は春英が挿図を描いている。春英は豊国より先輩の人気絵師であるが、役者似顔絵では、豊国とその門人である国政に押されて、寛政9年以降その分野から撤退していた。三馬と春英のペアで始まったこの企画に、版元は売り上げの確保に豊国による彩色摺似顔絵を加えることを提案、最終的に本書のような体裁になったものと推測される。 享和3年刊の初印本は、3冊本であったと思われる(国立劇場刊『戯場訓蒙図彙』中の服部幸雄氏解題)が、東洋文庫本は、巻一、巻二〜四、巻五・六、巻七・八の原体裁の4冊本。初印本とほとんど同一であるが、見返しの「銀十銭」とある部分がない。 掲載図は、巻二の《劇場表側景色》と題された堺町中村座の正面の図である。 解説:千葉市美術館学芸課長・東洋文庫研究員 浅野秀剛 大画像を見る |
大森善清『つたかづら』 |
墨摺(一部筆彩)絵本 1帖 25.5×17.4cm 後補表紙 後補墨書題簽「役者狂言尽 菱川師宣筆 全」 8丁8図(1図の大きさは25.5×34.8cm) 宝永(1704〜11)初期頃刊 金屋平右衛門版(推定) 横判に2人の歌舞伎役者を組合わせ、定紋を添えた図8図を1帖としたもの。同種の役者絵は、故吉田暎二氏が22枚を昭和31年に新発見として毎日新聞に発表して以来、よく知られているもの。吉田氏は、全図を図版紹介しなかったため確定はできないが、東洋文庫蔵の8図はその中に含まれると考えられる。吉田氏は鳥居家の元祖清元の作品としたが、子細に検討すると、元禄末から宝永初めにかけて京で活躍した役者が連作の中心になっているので、清元説は無理である。 詳細は省かざるをえないが、本帖は、京の浮世絵師、大森善清の役者絵本『つたかづら』3帖の一部であることがほぼ断定できる。含まれる8図は《川嶋しきぶ 高嶋尾上》《山下小才三 藤川武左衛門》《芳沢あやめ 山下半左衛門》《荻野左馬之丞 小佐川十右衛門》《嵐喜世三良 山下又四良》《神崎哥流 竹嶋幸左衛門》《百人一首孫三良 浅尾十次良》《水荻難波 金沢五平治》。これらの図が実際の舞台に取材したものか、あるいは適宜組み合せたものか、それとも両者が混在するのかは今後の検討課題である。『つたかづら』の初版は、他の善清の絵本と同様、団扇形枠があったものと推定されるが、団扇形枠のある遺作は確認されていない。本画帖は一部とはいえ原形に近い形で遺存した貴重な資料といえるであろう。 大森善清は、元禄後期から正徳年間に活躍した京都の浮世絵師。元禄後期から宝永前期にかけて20種以上の折帖形式の絵本を刊行したが、その過半は現存していない。 解説:千葉市美術館学芸課長・東洋文庫研究員 浅野秀剛 大画像を見る |
鳥居清信「玉沢皆之丞」 |
大々判墨摺絵 49.0×26.8cm 元禄11、12年(1698、99)頃 無款 版元未詳 掛額(絵馬)様の枠内に描かれた役者図である。元禄期における役者絵馬盛行のありさまは、元禄15年刊の評判記『江戸桜』の開口部に挿絵入りで記されている。 「はいでんにのぼれば、誠に社人の申のごとく、むかし役者絵馬より、当年の顔見せ、春狂言、二のかはりのあらましまでをかきて、かけ奉るを見れば、江戸の舞台にて見しに、少もちがはず、申せばおそれ多けれども、此御神と我も同腹中じやと、其夜はよもすがら、絵馬と引あはせてひょうばんし(後略)」玉沢皆之丞は大坂で活躍していた若女形である。評判記によると、皆之丞が元禄12年には江戸の舞台に出演していることから、この頃に制作刊行されたものと考証される。絵師は、当時盛んに役者絵を描いていた初代鳥居清信と考えてよい。他に類例のない大型の初期版画であるとともに、歌舞伎資料としても貴重な遺品というべきであろう。 解説:千葉市美術館学芸課長・東洋文庫研究員 浅野秀剛 大画像を見る |
鳥居清信「西川岡之助」 |
大々判墨摺絵 48.8×26.3cm 元禄11、12年(1698、99)頃 無款 版元未詳 前図31図と同時期、同性格の役者絵。元禄15年の評判記によると、西川岡之助は元禄10年冬より江戸に下り、同12年冬に帰坂していることが確かめられるので、本図も元禄11、12年頃に制作刊行されたものと考証される。絵師はおなじく初代鳥居清信。 解説:千葉市美術館学芸課長・東洋文庫研究員 浅野秀剛 大画像を見る |
二代鳥居清信「八代目市村宇左衛門の鬼王新左衛門と初代尾上菊五郎の小姓吉三郎」 |
細判漆絵 31.9×15.2cm 寛保四年(1744) 署名「繪師鳥居清信筆」 版元・小川 寛保四年春、市村座「七種〓(わかやぎ。生偏に品)曾我」に取材した作品。この時市村座は、曾我狂言の二番目あるいは三番目にお七吉三郎物を取り込んで上演した。画面の詳細は不明であるが、曾我兄弟の家来である鬼王と、小姓吉三郎実は曾我五郎が見つめあう場面である。 江戸において、版彩色である紅摺絵が登場するのは寛保2年(1742)であり、その後2、3年で、細判作品は筆彩色から版彩色に移行する。本図は、宇左衛門の羽織に膠入りの艶墨を塗った漆絵という筆彩色が用いられていることから、細判における筆彩色時代の最後期に位置する作品といえるであろう。 解説:千葉市美術館学芸課長・東洋文庫研究員 浅野秀剛 大画像を見る |
二代鳥居清倍「二代目市川海老蔵の五関破」 |
細判漆絵 32.0×15.1cm 寛保3年(1743) 署名「繪師鳥居清倍筆」 鱗形屋版 寛保3年11月中村座の顔見世「艤貢太平記」の一番目大詰の浄瑠璃「篠塚五関破」に取材した作品。海老蔵の篠塚伊賀守は、一番目の大詰、大塔宮熊野落ちの所、5つ関所を次々に打破り、終には蜀の関羽と名乗って、魏の曹操と名乗る大谷広次の足利尊氏と分かれる。その五関破の演出は、『歌舞伎年代記』にも挿絵入りで詳述されているが、その時の浮世絵版画は紹介されていないように思う。そういう意味では、歌舞伎資料としても重要なものといえるであろう。図33の二代清信の作品同様、細判における筆彩色時代の最後期の作品である。 解説:千葉市美術館学芸課長・東洋文庫研究員 浅野秀剛 大画像を見る |
鳥居清満「三代目大谷広次の放駒四郎兵衛と初代中村松江の中扇屋のおまん」 |
細判紅摺絵 28.2×13.6cm 明和6年(1769) 署名「鳥居清満画」 西村屋与八版 明和6年3月市村座「江戸花陽向曽我」の二番目に取材した作品。評判記『役者太夫位』の松江の評に「(前略)当春は御出勤なく漸三月節句より出られ京町中あふぎやおまん実はねの井大弥太が娘にて(中略)、次に十町(筆者注、広次の俳名)との髪梳」と記されていることなどから、男伊達の四郎兵衛との髪梳の演出があったようだ。この図はその前後の場面と想定される。おまんは、評判記『役者花鼎』には芸者とあるが、図は遊女を想定しているようにみえる。錦絵誕生後四年を経過した頃の作であるが、使用する色数が限定的であるので、一応紅摺絵に分類しておきたい。 解説:千葉市美術館学芸課長・東洋文庫研究員 浅野秀剛 大画像を見る |
勝川春章「四代目松本幸四郎の信濃の浅間左衛門と四代目岩井半四郎の女占方お松実は富士娘梅かへ」 |
間判錦絵 33.2×22.0cm 天明元年(1781) 署名「春章画」 版元未詳 長方形枠の幸四郎の大首絵と雪輪形枠の半四郎の大首絵を組合せた作品。天明元年11月市村座顔見世「むかし男雪雛形」に取材した作品。この時の絵本番付と評判記によると、半四郎の梅かへは、父の敵を討とうと勅使となって春枝邸に行った折、幸四郎の信濃の浅間左衛門と仮の夫婦となり、嫉妬からくる夫婦喧嘩を喜劇風に演じる場面があったようだ。したがってその2人を組合せたものとみてよい。東洋文庫蔵品以外に遺品の確認されていないもの。保存もきわめて良好である。 天明元年の顔見世の中村座と市村座に出演した人気役者を2人ずつ組合せた連作の1図。春章の役者大首絵としては、《東扇》のシリーズが早くかつ著名であるが、本図を含む連作は、同時に少なくとも6図制作刊行されたということに意味がある。本図の他は、《岩井半四郎と中村助五郎》(市村座)、《市川団十郎と瀬川菊之丞》《中村仲蔵と市川団十郎》《中村仲蔵と瀬川菊之丞》《市川門之助と坂東又太郎》(以上中村座)であるが、いずれも盛期の春章作品に共通する爽快感がある。 解説:千葉市美術館学芸課長・東洋文庫研究員 浅野秀剛 大画像を見る |
勝川春英「五代目市川団十郎の廻国修行者と四代目岩井半四郎の女順礼」 |
間判錦絵 32.0×21.5cm 天明(1781〜89)末〜寛政(1789〜1801)初期 署名「春英畫」 版元未詳 市川団十郎の廻国修行者(六十六部)と岩井半四郎の女順礼であるが、遺憾ながら上演狂言を特定できない。『原色浮世絵大百科事典 第8巻』第9図、春英画《五代目市川団十郎の廻国修行者》(細判)が、本図の団十郎の図様によく似ているので、同じ狂言に取材したものと推定できる。春英は、勝川春章門の高弟で、寛政前期の役者絵界を主導した。 解説:千葉市美術館学芸課長・東洋文庫研究員 浅野秀剛 大画像を見る |
勝川春潮「忠臣蔵七段目」 |
柱絵判錦絵 69.5×12.1cm 寛政3、4年(1791、92)頃 署名「春潮画」 岩戸屋喜三郎版 「極」印 「仮名手本忠臣蔵」の七段目、一力茶屋において顔世御前からの手紙を大星由良之助が吊提灯の明かりで読み、2階から手鏡でお軽が盗み見し、縁の下では斧九太夫が盗み読みしている著名なシーンを細長い柱絵としたもの。忠臣蔵の中でも最も知られた場面であり、見立絵も含めて数多く描かれている。 解説:千葉市美術館学芸課長・東洋文庫研究員 浅野秀剛 大画像を見る |
東洲斎写楽 「三代目坂東彦三郎の鷺坂左内」 |
大判錦絵 37.3×24.7cm 寛政6年(1794) 署名「東洲齋寫樂画」 蔦屋重三郎版 極」印 寛政6年5月河原崎座「恋女房染分手綱」及び「義経千本桜」に取材した大首絵10図の中の1図。「恋女房」の四立目の勘当の段に取材した作品。由留木家の家臣、伊達の与作(二代目市川門之助)は、若殿から預かった金子300両を奪われた罪で追放となる。その始終を見ていた腰元重の井(四代目岩井半四郎)がかけ寄り、2人の不義が露顕しそうになるのを、彦三郎扮する家老鷺坂佐内がとりつくろい、与作を逃がす場面。手燭をかざして庭を見、2人を見つけ、たしなめ諭すところと推察できる。目を見開き、口許をゆがめた必死の形相である。写楽は《二代目市川門之助の伊達の与作》も描いており、その与作は、追放される場面と考えられるので、彦三郎を向かって右に、門之助を向かって左に配して対とすることを意識したのかもしれない。 解説:千葉市美術館学芸課長・東洋文庫研究員 浅野秀剛 大画像を見る |
歌川国貞 「七代目市川団十郎の暫」 |
色紙判錦絵摺物 20.8×18.4cm 文政(1818〜30)期 署名「五渡亭國貞画(貞三升)」 暫の扮装の七代目団十郎が、節分の豆蒔きをしようという図である。右上の太鼓のマークなどから、狂歌師グループの太鼓側に属する至清堂捨魚と宝市亭升成が注文した春興摺物と判明する。上部の漢詩と狂歌は、「一声之暫市川風 煎豆奏著淑気通/名響四夷八荒外 誉高桟敷土間中/至清堂捨魚」「立かゝる春を見かけてしはらくと/ひとこゑかくる庭の鶯/宝市亭升成」 升成は、三升連にも属する団十郎贔屓で、文政期に何枚かの暫図の摺物を刊行している。 本図は、『風俗狂歌摺物帖』に貼付されている作品。この摺物帖には、文化末から文政期の豊国及び国貞画の摺物が36図収められている。 解説:千葉市美術館学芸課長・東洋文庫研究員 浅野秀剛 大画像を見る |