長禄江戸図 |
抄写図 64.8×75.8cm 江戸末期 太田道灌築城の頃の図と伝える。当時の古地図は現存せず、江戸中期の大久保酉山所蔵の抄写図をもとに伝写によって多数、流布している。長禄2年と題するものと、3年と題するものの2種がある。川、入り江、村の名などを簡単な線描で描く。地名は、桜田郷、豊嶋郷、日比谷など。江戸城は、紅葉山あたりの丘に天守閣の図柄を描くだけ。寛永図から復原した想像図である。抄写図のほかに版刻図もあり、弘化4年、嘉永4年、文久3年の各版がある。近藤瓶城編『史籍集覧』(明治17年刊)に長禄年間江戸図説がある。(参考:長沢規矩也「江戸図目録稿」・『著作集』224頁以下) 解説:東洋文庫理事 田仲一成 大画像を見る |
武州豊嶋郡江戸庄図 |
抄写図 87.7×119.5cm 寛永(1624〜44)年間 原図は寛永年間の作。出品作は元和表記の図。江戸の版図の最古のもの。東は浅草橋、西は山王、南は増上寺、北は神田川筋違橋下流まで。江戸城の内堀、外堀は配置を完了し、河川、堀、池などの水は淡青、街路は黄、樹木は緑、社寺の柱は朱に彩色。江戸城は山の紅葉を背景に5層の天守閣を大きく描く。左隅に黒枠で囲んだ凡例を配し、日本橋から各街道の江戸境までの距離を記す。東は奥州海道で、千住口、浅草まで24.5里、南は東海道で、芝・品川口まで20里、西は北国海道で、小路町・武蔵野野原、五ツ塚まで37.8里、北は海道名記さず、神田・板橋・王子口まで34.5里とあり、寛永9年、申、11月開板と記す。この系統の図には元和6年と記すものがあるが、寛永図をもとに偽作されたものである(元和は僭称)。その後、寛政2年、文化10年にも転写されている。長禄図より信頼できる。(参考:長沢規矩也「江戸図目録稿」・『著作集』231頁以下) 解説:東洋文庫理事 田仲一成 大画像を見る |
遠近道印「寛文江戸大絵図」 |
版刻図 169.3×191.7cm 寛文10年(1670) 経師屋加兵衛版 寛文10年の図。明暦3年(1657)の江戸大火後、同四年(1658)、幕府の命によって、北条安房守氏長が作製した実測図に基づいて、藤井半知(遠近道印)が許可を得て製図したものといわれ、5回に分けて出版された。左下凡例に遠近道印作、経師屋加兵衛版と記す。
解説:東洋文庫理事 田仲一成 大画像を見る |
鍬形紹真「江戸名所之絵」 |
版刻図 42.0×58.5cm 享和3年(1803) 野代柳湖刻 享和3年(1803)、鍬形紹真(〓<草冠に惠>齋、1764〜1824)画。紹真は天明年間、北尾政美の名で浮世絵を描き、寛政期に大和絵に転じ、津山藩に仕えた。のち〓<草冠に惠>齋と号した。本図は江戸の東、墨田川の本所上空から江戸城・江戸市中・同郊外を望む鳥瞰図である。太陽が西にあり、日没寸前の時刻ということになる。津山にある「江戸一目図屏風」はこの作品を原型として制作されたもの、本図は縮小版である。常盤橋御門の外、呉服橋、日本橋、駿河町などの繁華街付近を特に詳しく描き、湯島聖堂、神田明神、昌平橋、湯島天神、忍ばず池、神田川筋の水道橋、市谷八幡、九段坂など東北部を詳細に描く。主要な地名、町名のほか、三井など大店名、料理屋名なども入っている。 解説:東洋文庫理事 田仲一成 大画像を見る |
プロシャ東アジア調査団「江戸城常盤橋御門図」 |
水彩画 25.8×47.6cm 1860〜63年頃 1864年ベルリン王室版 1860年に江戸を訪れたプロシャ東アジア調査団の報告書 China, Japan und Siam に載る江戸外郭城門の一つ、常盤橋御門の内側から見た風景図。説明書きでは江戸の北側の門で、日本橋などの繁華街に通じる主要な街路がここで交差するとあるから、呉服橋、一石橋、駿河町など交通の要路が集中する常盤橋御門の渡り櫓を内側に視点を置き、北から南を眺めた風景と見る。右手角の屋敷は北町奉行所、右手は大名屋敷、門外を通行する人々の列は呉服橋から、日本橋に向う群衆であろう。右手の籠列は従者の数12〜13名の規模から、一万石程度の小大名、また門に近く7名の供を連れた騎乗の武士は旗本であろう。いずれも門内から門外に向っており、下城の風景と見られる。季節は冬、時刻は影の状態から見て、昼近い午前と見られる。 解説:東洋文庫理事 田仲一成 大画像を見る |
E.ケンペル 『日本誌』「江戸城内大広間将軍謁見図」 |
印刷本挿絵 32.0×40.3cm 1696年頃 1777年ドイツ・レムゴー版 ケンペル『日本誌』に載る図。ケンペルは長崎のオランダ商館に勤務したドイツ人医師。在任中、元禄3年(1696)に、商館長に随伴して、江戸城に入り、将軍綱吉に謁見した。図はその時の模様を思い出して描いたもの。人の大きさに比して広間の大きさを推測できるが、広大な規模であることがわかる。幕臣が横一列に座して控える中を、広間の隅に洋装の4名の異人が伺候し、1人は立って、舞踏している。これは、記事によると、将軍が異国の歌謡や舞踏の実演を要求したため、これに応じたものという。将軍周辺の御簾にいる女性の中には、好奇心のあまり、御簾の間から顔を出している者さえ見える。画の下にGo Sannoma(御参の間)、Audienz Saat(謁見室)とある。植物学者、旅行家でもあったケンペルは帰国後、本書を著わし、(出版は没後の1777〜79年)、日本を欧州に紹介する上で、貢献した。日本の政治、歴史、宗教、地理、動植物など、広い分野にわたり、その知見が紹介されている。 解説:東洋文庫理事 田仲一成 大画像を見る |
葛飾北斎 『画本東都遊』 |
彩色摺絵本 3巻3冊 26.3×17.5cm 享和2年(1802)春刊 須原屋伊八・須原屋茂兵衛・西村源六・蔦屋重三郎版 春興の狂歌と北斎の江戸名所図を合わせた墨摺絵入狂歌本『東遊』(1冊、寛政11年刊 浅草庵市人撰、蔦屋重三郎版)の刊行後、挿図29図(見開き図20、半丁図9)のみを色摺とし、3冊本として売り出したもの。掲載したのは「日本橋図」。日本橋の北河岸から西方の江戸城を見た景色。一石橋、呉服橋も見える。江戸城までの距離は遠いが、富士見櫓を視界に入れた構図。日本橋を渡る群衆、橋下を流れる日本橋川、その両岸、特に北側の魚河岸を埋めつくす店の混雑など、活気にあふれたこの商業地区の様子が描かれている。 解説:千葉市美術館学芸課長・東洋文庫研究員 浅野秀剛 東洋文庫理事 田仲一成 大画像を見る |
鳥居清長 「駿河町越後屋正月風景図」 |
特大判墨摺筆彩 41.3×70.2cm 寛政4年(1792) 署名「東都鳥居清長画」 版元未詳 駿河町通りを挟んで西側に店舗を構える三井越後屋を室町通り側から描き富士山を遠望したもの。右が本店で、左が向店といわれた綿店である。遠近透視図法を極端な形で応用した浮絵の手法で描かれた正月風景である。浮世絵版画としては最大のサイズである丈長奉書全紙大であり、色板も作るのはさすがに大変だったとみえ、筆彩色としている。三井家には、同じ清長画のほぼ同じ大きさの同工の肉筆画(絹本着色1幅)が伝存しており(現在は三井文庫蔵)、本図はその肉筆画を基に、人物を増補したものと考えることができる。本図の手前の男が背負う越後屋の荷箱に「子春」とあるのは、制作年と考えてよい。肉筆画が天明末から寛政前期の制作であることなどから、寛政4年の子年と考定できる。画題及び大きさを考慮すると一般売の商品というよりは、越後屋が何かの記念に特別に注文し、配り物にしたと考えてよいかもしれない。 解説:千葉市美術館学芸課長・東洋文庫研究員 浅野秀剛 大画像を見る |
初代歌川広重・二代歌川広重 『名所江戸百景』 |
大判錦絵貼込帖 36.4×26.8cm 魚屋栄吉版 二代広重の淡彩画に続いて「名所江戸百景」を目録とも120図を貼り合わせ1冊としたもの。詳細は浅野「東洋文庫の絵本と浮世絵」参照。 掲載図は《虎の門外あふひ坂》(安政4年11月改印)。江戸城の南、外堀に沿った葵坂を、坂の下から西の溜池を望んだ夜景。溜池の堰から落ちた水が外堀に流れ出している。「二八」あるいは「太平しつほく」と書かれた屋台のそば・うどん屋、寒行の父子などが描かれている「金毘羅大権現」の提灯を持っているので、虎の門外の丸亀藩京極家の上屋敷内にあった金毘羅社へ参ったのであろう。金毘羅社は毎月10日が祭日で、寒中では、旧暦12月10日であった。 解説:千葉市美術館学芸課長・東洋文庫研究員 浅野秀剛 大画像を見る |
二代歌川広重 『江戸名所四十八景』 |
中判錦絵貼込帖 1帖 24.3×17.9cm 全48図 一〜六、九.十、十三、十四、廿一〜廿四の14図は万延元年(1860)12月の改印、 他の34図は万延2年正月の改印 蔦屋吉蔵版 初代広重の門人、重宣が広重を襲名したのが安政6年(1859)であるが、その翌年の暮から翌々年の正月にかけて刊行した中判の江戸名所図である。掲載したのは《四六 市ケ谷八まん》。市谷御門外にあった市谷八幡宮の桜の時分の境内を描いている。 解説:千葉市美術館学芸課長・東洋文庫研究員 浅野秀剛 大画像を見る |
長谷川雪旦『江戸名所図会』 |
墨摺地誌書 7巻20冊 各25.8×18.2cm 齋藤幸雄・幸孝・幸成(月岑)編 長谷川雪旦画 前編10冊は天保5年(1834)刊、後編10冊は天保7年刊 須原屋茂兵衛・須原屋伊八版 650余の挿絵を有する大部の名所図会。掲載図は「御茶の水・水道橋」。江戸の外堀、神田川の北方、駿河台、お茶の水から水道橋を望む景色。駿河台は樹木が茂り、対岸のお茶の水には神田川を見下ろして町屋が立つ。彩色のない素朴な線描画であるが、水道橋より更に上流の川筋を見とおす遠近感、立体感に富んだ構図である。 解説:東洋文庫理事 田仲一成 大画像を見る |
鶴岡蘆水 「東都隅田川両岸一覧」 |
墨摺筆彩 2巻 東巻:25.5×757.4cm 西巻:25.5×1421.3cm 天明元年(1781)5月 署名「鶴岡蘆水画」 版元未詳 宝暦(1751〜64)頃成立した狩野休栄筆『隅田川長流図巻』(紙本着色、3巻、大英博物館蔵)に基本構成を依拠し『長流図巻』の中巻を「東」岸の巻、上・下巻を「西」岸の巻として刊行したもの。年代の違いから景観は変えられているが、基本的構図は酷似しており、両岸を別々に描くという構成も同一である。「東」巻は、永代橋から川を上り、千住大橋、筑波山まで東岸を写し、「西」巻は、真崎稲荷から下り、佃島、富士山まで西岸を写す。巻子あるいは帖装で、かなりの数が伝存しているが、書誌の詳細は明らかにされていない。 今、東洋文庫本を国会図書館本と比較すると、澤田東江撰の跋文が、国会本の楷書体に対し行書体となっているほか、両国橋東詰の水垢離場で垢離をする人が国会本にはないなどの相違点があり、東洋文庫本が初印である可能性が大きい。掲出したのは「東」巻の両国橋の部分である。 解説:千葉市美術館学芸課長・東洋文庫研究員 浅野秀剛 大画像を見る |