ホーム蔵書検索研究成果ライブラリリサーチアカデミアミュージアム東洋文庫について

教養講座
 
明治維新10講
 
(チラシ用画像) 三谷 博
東洋文庫研究員
東京大学名誉教授
(講師顔)
 本講座では明治維新の政治史について一次史料を読みつつ新たな解釈を追求します。近代の世界に起きた諸革命の中で明治維新には際立った特徴がありました。君主政の下に支配身分を解体するという大変革を行ったこと、にもかかわらず、その犠牲は他の革命より一桁ないし二桁少なかったことです。この特徴がなぜ生じたのか、それは社会改革一般に対しどんな示唆を提供するのか。そうした問題意識の下に、時代の各局面で見られた状況認識・判断・行動を、時代を導いた政治家が遺した史料を読みながら考えてゆきます。

 【講座コード】 202404
 【金額】 全回通し券一 般 29,000円(友の会会員 26,100円)/1回受講券一般2,900円(友の会会員2,610円)
 【持ち物】 特になし
 【講座期間・曜日】 2024年4月17日〜2025年2月19日 水曜

【カリキュラム】
第一回2024年4月17日水曜日15:00〜16:30教室:2階講演室明治維新の前提(1)―「双頭・連邦」の国家

維新で起きた変化は王政復古から廃藩、脱身分化へという道を辿った。江戸時代の日本には京都に禁裏、江戸に公儀と二人の君主がおり、それらを約27の国家が取り巻くという、人類史に珍しい複雑な政体があった。それを一人の君主に整理したのが王政復古、大名の国家を解体したのが廃藩であったが、それと同時に武士身分の解体と被差別身分の平民統合も行われた。第1回は、維新の前提となった国家についてその基本構造を解説し、19世紀の世界環境の変化に伴ってそのどこに問題が生じたか、かつ幕末以降に何を遺したのかを考える。
第二回2024年5月15日水曜日15:00〜16:30教室:2階講演室明治維新の前提(2)―東アジア秩序と公儀の長期的危機認識

近世東アジアの国際関係は極めて薄かった。維新に隣国からの干渉がなかったのはそのためである。その孤立環境の中で、徳川公儀は18世紀末以来、外交政策の機軸を東アジアから西洋に移し、西洋の接近を将来に予想し、その対策を立て始めた。松平定信は鎖国・避戦・海防という三次元を組み合わせた対外政策を立案し、その枠組みはロシアとの小衝突の際も、のちに隣国でアヘン戦争が起きた後にも活用された。この営みは、遠い未来の危機を予見し、対策を立てた点で、今日の資源-環境問題に匹敵する意義を持つ。他方、国内では様々の対西洋論が著された。それらを部分的開国論、積極的開国論、攘夷論に分けて紹介し、その間の移行関係を解説する。
第三回2024年6月19日水曜日15:00〜16:30教室:2階講演室鎖国維持から開国へ

ペリー渡来の約10年前から政権を担った阿部正弘は鎖国の維持を基本としつつ、江戸湾口の防備を固め、かつ無用な衝突の回避にも配慮した。来訪する西洋艦隊にどう対処すべきか、艦隊の規模に応じて目算も立てていた。その結果、ペリーに対しては戦争を回避しつつ、通信・通商を含まない部分開国で済ませ、国内への打撃を限定した。その時間稼ぎの中、阿部は軍備と西洋文明吸収への長期対策を立て、世界状勢を確認した後に、外交の基本を鎖国維持から通商開始に転換した。
第四回2024年7月17日水曜日15:00〜16:30教室:2階講演室大崩壊の始まりー安政5年政変

ペリー来航後も日本の政治は安定していた。しかし、1858年、通信・通商条約の締結と将軍の継嗣問題とが絡み合った結果、近世の政治体制は大崩壊を始める。将軍継嗣問題をめぐり、紀州の徳川慶福と一橋慶喜を推す2党派が形成され、前者が勝利し、かつ後者を弾圧したため、幕府と大大名、幕府と朝廷、幕府と志士、政界の各レヴェルで対立が連鎖し始め、原状復帰は不可能になった。政治の場には、近世に絶えて見られなかった公論と暴力が登場し、それ崩壊を推進した。なぜこの大崩壊が生じたのか、その原因を探る。
第五回2024年9月18日水曜日15:00〜16:30教室:2階講演室強兵・公議・尊攘

桜田門外の変は政治的発言の禁を解いた。その時三つの運動が展開した。大海軍の創設を主とする幕府の強兵改革、「公議」「公論」を掲げる旧一橋党大大名の政権参加運動、そして大名の家臣と民間知識人による尊王・攘夷の運動である。1862年から翌年にかけ、幕府の強兵策は公議運動により抑え込まれ、公議運動は尊攘運動に翻弄されて、日本の行く末は見通しが効かなくなった。この動乱の時代に出現した政治のポリフォニーについて解説する。
第六回2024年10月16日水曜日15:00〜16:30教室:2階講演室公武合体と公議の追求

1863年の8月18日の政変は秩序回復の機会となった。そのとき、薩摩と越前は、彼らの政権参加による公議政体の樹立と開国政策の定立を狙ったが、幕閣と会津は徳川の政権独占の回復を図った。後者は天皇に対し横浜の鎖港を提案し、それにより前者を排除して、朝廷と和解することに成功した。この公武合体の体制は、外は西洋による横浜鎖港の拒否、内は長州に加え、薩摩・越前らの不服従に直面することとなる。
第七回2024年11月13日水曜日15:00〜16:30教室:2階講演室内戦勃発と王政復古

公武の和解は成功したものの、内戦が始まった。1864年、水戸に起きた内乱は天狗勢1000人の武装西上にまで展開し、その最中に長州は京都奪回のため出兵した。他方、西洋側は条約維持のため日本に軍事的圧力をかける計画を立て、翌年には兵庫沖に艦隊を集結させて条約勅許を強要した。薩摩は長州の最終処分や朝廷の開国策転換をめぐって大名会議を招集し、公議政体への転換を図ったが、徳川慶喜を中心とする公武合体体制はこれを退けた。しかし、1866年、幕府が長州征討に失敗すると、公議政体への移行は現実的課題となった。
第八回2024年12月18日水曜日15:00〜16:30教室:2階講演室王政・公議政体の出発

徳川宗家を継いだ徳川慶喜は一旦は公議政体への歩み寄りを見せたが、その後、専制に傾斜し、旧一橋大名の長州復権・公議政体移行の望みを退けた。このとき、薩摩は軍事力の動員を決意し、長州と王政復古のための出兵、土佐と復古後の体制についての盟約を結んだ。これに対し、慶喜は政権の朝廷返還を決意し、朝廷はこれを受け入れた。復古後の体制は大名会議で決める予定であったが、薩摩は土佐や越前を誘ってクーデタを敢行し、王政復古と抜本的改革を宣言した。新政権では徳川を中心とすべきか、排除するか、綱引きが行われたが、徳川が京都に攻め上り、敗北したことにより、後者で決着がついた。その後の政府は国内統合を主旨とし、「政体」により出身を問わぬ人材登用を宣言する一方、全国からの支持調達に腐心した。その結果、戦乱は東北のみに限定されることとなった。
第九回2025年1月15日水曜日15:00〜16:30教室:2階講演室改革と暴力への誘惑

戊辰内乱の収束後、政府は集権化を課題とし、公議所で藩代表の意見を聞いた後、まず版籍奉還を行い、全国統合の準備を整えた後に廃藩まで行った。これと並び、交通・通信網の整備や経済開発、学校の創設などにより「文明開化」に尽力した。他方、戊辰内乱は暴力への誘惑も遺した。大名の多くは軍隊を解散したが、戦勝藩の中には大規模な軍隊を維持し、土佐のように天下再乱の機を狙うものもあった。政府は薩長土の地方軍を東京に集めて近衛兵とし、その危険を回避したが、征韓論政変の結果、薩・土軍は地元に帰り、東京と睨み合う形となった。武士の家禄解消が宣言されたとき、薩軍は武力反乱に踏み切った。それが停頓する最中、土佐の板垣退助は武力蜂起を断念し、言論一本で政府に対抗する道を選択した。1858年以来の動乱はこうして終熄し、言論は暴力と袂をわかった。
第十回2025年2月19日水曜日15:00〜16:30教室:2階講演室世界比較の中の明治維新

維新を世界の近代革命と比較すると、いくつか重要な特徴が見えてくる。第1は、君主政のもとで大規模な政体と社会の変革を行ったこと。「双頭・連邦」の国家を「単頭・単一」の国家に変え、さらに武士身分と被差別身分をなくした。この事実は20世紀の世界に流布した革命理解のモデルを変える必要を示す。近世から近代への移行期には、日本だけでなく、北欧にも「王のいる共和政」ができているのである。また、維新では死者が少なかった。約3.2万人。暴力の強度は犠牲の数を人口と年数で割ると比較可能となるが、維新でのそれは他の革命より二桁低かった。なぜそんな差異が生じたのか。日本固有の条件と普遍的な条件とを検討してみたい。

 



全回通し券の販売期限は2024年4月16日(初回開催日前日)の17時00分です。 各回ごとの券の販売期限は、各回前日の17時00分です。 販売期限前でも、定員に達し次第、申込を締め切ることがあります。
 

印刷用チラシ  




このページのURLは  




古代オリエント博物館・自由学校
古代オリエントの文化や言語、美術について学べる、
古代オリエント博物館の市民講座です。